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歴史時代作家クラブ公式ブログ

現在活躍中の歴史時代作家が多数所属する文学団体です。「歴史時代作家クラブ賞」や各種イベントなどの会の活動、新刊書などの最新の会員の仕事を紹介します。初めにこちらをお読みください。→http://rekishijidaisakkaclub.hatenablog.com/entry/2014/08/01/105546

書評『うつけ世に立つ』

雨宮由希夫

書名『うつけ世に立つ 岐阜信長譜』
著者名 早見俊
発行所 徳間書店 
定価  2000円(税別)

 

うつけ世に立つ: 岐阜信長譜 (文芸書)

うつけ世に立つ: 岐阜信長譜 (文芸書)

 

 

 信長について、好きな人は、信長は英雄であり、改革者であると讃え、一方、嫌いな人は、信長は暴君、蛮人であり、独裁者であると眉を顰める。
 たとえば、作家の立松和平は「信長という時代の変革者はただ破壊するだけでなく、次の時代への展望があった。これは他の戦国大名にはなかったことである」と信長を讃えてやまない(『織田信長 ――「信長公記」紀行』 勉誠出版2010年2月刊)が、歴史家の池上裕子は「信長の〈天下布武〉とは調略用語にすぎず、容赦のない殺戮戦を展開した信長の戦争は敵を徹底的に破壊する信長流の報復戦であって、ここには古いものを壊す〈革命児〉の姿はない」(『織田信長吉川弘文館 2012年12月刊)と問答無用である。
 来る平成9年(2017)は信長が岐阜に入城した永禄10年(1567)から数えて450年の節目の年にあたる。

 本書は岐阜市❝信長公450プロジェクト❞との特別コラボレーション企画として、ウェブサイト❝歴史行路❞に2015年6月から2016年5月まで連載された早見俊の「醒睡の都 岐阜信長譜」が底本となっている。少年時代から岐阜入城までの信長を描いた作品としては安部龍太郎の『蒼き信長』(毎日新聞社 2010年1月刊)があるが、岐阜市出身の歴史小説作家として白羽の矢が当たった早見は、安土城築城から本能寺の変に至る信長の後半生を大胆にもカットし、岐阜時代の信長にしぼって渾身の筆を振るっている。
 尾張を統一し、桶狭間の戦い今川義元をやぶった信長は、ついに、美濃攻略に本腰を入れるべく、永禄6年(1563)7月、清州城から小牧山城に移り、美濃攻略の根拠地としている。
 本書は、永禄10年(1567)8月、秀吉が斎藤龍興の重臣で美濃三人衆といわれた稲葉良通(一鉄)、安藤守就氏家直元(卜全)を調略するシーンからはじまる。8月15日、美濃三人衆の内応により龍興を稲葉山城に攻め陥れ、 信長34歳はついに父信秀以来の悲願であった美濃征服を実現。岳父斎藤道三ゆかりの稲葉山城岐阜城と改名して自らの居城とし、「天下布武」の四文字を印文とする印判状を発給、天下統一のための力強いスタートを内外に宣告する。翌年には、早くも足利義昭を奉じて上洛している。
 
 主な登場人物は、信長の正室帰蝶(濃姫)はもちろん、斎藤龍興氏家直元・直昌父子、明智光秀など岐阜にゆかりのある人物である。岐阜出身の作家として早見には岐阜における信長に対して一種独特な心情があるのであろう、作家の造形力が強く打ち出され、彼らの人物像がこれまでの<信長もの>歴史小説には見られない異色の光彩が放たれている。
 信長の正室帰蝶(濃姫)がどう扱われているか、読者は先ずそこに注目するであろう。信長15歳と美濃国主・斎藤道三の娘・帰蝶14歳の結婚は典型的な政略結婚であった。上洛への足掛かりとして美濃を狙っていた信長にとって帰蝶は「天下」への夢をつなぐものであり、美濃衆を味方に付けるためには必要な存在、織田斎藤同盟のくさびであった。
 しかるに、帰蝶は、ついに信長の子を産むことはなく、正室でありながら、いつ死亡したのかさえ不明であるという。本能寺の変の後まで生きたという説もあれば、帰蝶は実家に返されたとする説もあり、弘治2年(1556)4月、斎藤道三が嫡男義龍との戦いに敗れ死去した直後に、史料上、名前が消えることから信長とは離別したのではないかとみる研究家もいる。
 本書は、心を許したこともない名ばかりの夫婦関係にあった二人が、永禄10年(1567)暮、岐阜城下の草庵で、11年ぶりに再会すると物語る。帰蝶が信長と離別したのは、信長の愛妾吉乃(生駒氏)が信忠を懐妊した弘治2年夏ごろと、作家はみなしているのであるが、それに加えて、落飾し、亡父の菩提を弔っているばかりの帰蝶ではなく、信長打倒という望みにすがることで命永らえている帰蝶が活写されているのは興味深い。
 
 明智光秀とは何者なのか。光秀は帰蝶の母・小見の方(明智氏)の遠縁で、光秀と帰蝶の二人は幼馴染み、その線で、光秀は信長に仕えることになったとの説があり、永禄7年(1564)頃、信長に仕え始めたとするのが有力だが、本書では、永禄10年(1567)普請中の岐阜城にて、越前朝倉の家臣の光秀が信長への会見を求める形で、信長に会ったとしている。また、光秀と帰蝶及び道三との繋がりには特に触れられていない。なお、宮本昌孝の最新作『ドナ・ビボラの爪』(中央公論新社 2016年8月刊)は道三の側近であった光秀が本能寺の変を策すさまを信長に殺された帰蝶の生涯にからませて描いている。
 斎藤龍興は斎藤家二代目義龍の長男で、道三の孫である。信長が岐阜に入城するや、美濃国主の座を追われ、木曽川を船で下って、伊勢の長島へ落ちていく。永禄12年(1569)1月、三好党による本圀寺の将軍足利義昭襲撃に加わっていること、天正元年(1573)8月、朝倉義景が信長に追討されたときの越前の刀禰山の戦いで朝倉軍に与して敗死(26歳)していることが断片的にわかっているが、本書では、信長打倒、美濃国主への返り咲きをもくろむ龍興が活写されている。出家するとの信長との約束を違え、伊勢長島の一向宗徒に加わることにはじまり、龍興は生涯、反信長戦線の一翼を担って戦い続ける。
 史実がわからず想像力で埋めなければならない部分には、架空の人物が配されている。父親を織田軍に殺された鵜匠の弥吉もそのひとりで、信長は信長を憎む弥吉に岐阜で戦を起こさない、鵜匠が安心して鵜飼を続けられる世、笑って暮らせる世を創ると約す。比叡山を焼打ちし、一向一揆門徒衆を虐殺する現場を直に見ている安楽庵策伝は、弥吉と約束を交わす信長を垣間見て、「織田信長、あなたは一体何者なのですか」と問う。この問いかけは作家自身の問いであろう。なお、落語の祖ともいわれている安楽庵策伝は実在の人物で信長の直臣金森長近の年の離れた弟であるという。
 信長という人は、一つの目的を成し遂げるためには、手段を選ばず破天荒な生き方をした人物である。どのような信長像を描こうとも、<信長もの>歴史小説を書く作家に求められるものは最終的に「信長とはいったい何者なのか」を読者に納得させることであろう。
 天正4年(1576)2月 信長43歳はこの城を嫡男信忠に譲って、安土へ移る。足掛け10年、信長は岐阜に住んだことになる。

 信長は、山麓に壮大華麗な城館を建てた。現在、岐阜公園になっている千畳敷が信長の居館跡と比定されている。本書では、優れた京文化の後見役にならんとし、京の都から評判の庭師を呼び心血を注いで作庭する文化人信長を描き、信長の文化面の貢献を強調している。
 信長といえば、「うつけ」と呼ばれていた時期があったことで有名である。少年時代の信長の出で立ちは、『信長公記』に、髪は茶筅のように結び、腰に火打ち袋をぶら下げ、朱色の太刀をさして歩いたとある。父信秀の葬式で、茶筅髷に袴も着けない湯帷子のいでたちで、抹香をつかんで仏前に投げつける大うつけぶりは若き日の信長を語るに欠かせないが、うつけとは単純に馬鹿の意ではなく、「中味が空っぽなこと」であると作家はいう。

 本書の書名、「うつけ世に立つ」は「うつけ信長が世に立つ」のではなく、「うつけ世に、信長が立つ」の意である。信長によれば、うつけなのは信長自身ではなく、世の中の方がうつけであり、最後の将軍足利義昭は「うつけ公方」、比叡山延暦寺は「うつけ寺」というわけである。天正とは天下を正すという意味で、天正への改元はうつけ世ではない本物の世を創るという信長の強い意志が込められている。
 信長が労咳で衰弱した帰蝶を抱き上げ天守に登るラストシーンは感動的である。稲葉山、現在は金華山と称されている山頂に聳える岐阜城天守から雄大な濃尾平野が一望できる。信長の頃には、天空から下界を鳥瞰する感の趣があったであろう。
 
※去る10月12日、歴史小説の魅力を世に広め、このジャンルの認知度を高めたいという熱い思いを共有する歴史時代小説家有志が「操觚の会」を立ち上げ、第一回の歴史講演会が開かれた。テーマは信長で、本書をテキストとして早見俊が栄えある第一回の講師を務めたことを付記する。
          (平成28年10月29日 雨宮由希夫 記)

書評『親鸞』

雨宮由希夫

書   名 『親鸞
著   者  三田誠広
発   売  作品社
発行年月日  2016年6月15日

親鸞

親鸞

 

 

 そもそも親鸞(1173~1262)は自らの私生活について全く語ることをしなかったため、親鸞の家系と出自、親鸞の妻など肝要なことごとをはじめとし、その生涯については謎、不明な部分が多い。

 親鸞は皇太后大進日野有範を父とするが、親鸞の母について、著者は源頼朝の妹の貴光女で、つまり、親鸞は頼朝の甥にあたるという説に拠っている。これは甚だしく刺激的なことであるが、作家は「特に根拠があるわけではないが、そのように設定すれば、話がおもしろくなる」としている。

 親鸞の生きた平安末期は貴族の支配が終わり、武士の時代の幕開けとなった時代である。治承5年(1181)、親鸞は9歳で出家している。出家は貴族社会での栄達を放棄することである。親鸞自身の意志ではなかったと察せられるが、源氏ゆかりの出自が出家を余儀なくさせたと作家は観ている。
 前年には頼朝が伊豆で挙兵。時あたかも諸国の源氏が打倒平家の旗挙げに踏み切った時期に、親鸞自身も新たな門出に踏み切ったことになる。文治元年(1185)の壇ノ浦の戦い親鸞13歳の時である。
 平氏の滅亡を少年親鸞比叡山で知ったことになるが、史上の親鸞は源平の戦乱については何も語っていない。ここは抑えどころである。

 保元元年(1156)の保元の乱で、天皇方の義朝は敵方の上皇方(崇徳上皇)についた父・為義を殺すよう、後白河天皇に命じられ、義朝は自らの手で為義を殺している。
 本作の設定通り、まさに親鸞の母が頼朝の妹であるとすれば、親鸞は義朝の孫に当たるわけであり、親鸞の血の中に、東国武士の総帥たる伯父頼朝および父殺しをした祖父義朝の血と同じ血が自分の体内にも流れていることになり、これにより、「親鸞の胸中に絶えず重い空気をもたらしている五逆の罪(父殺し)という概念の切実さが、より強くなる」のは当然のことで、罪深い悪人こそ救われるという悪人正機説を唱える親鸞が「五逆を犯した者も救われるというが、わが祖父義朝もすでに救われているのか」と叫ぶ姿は源平興亡史に重なるわけであり、読者にとってまさに衝撃的以外の何物でもないであろう。

 親鸞を宗祖とする浄土真宗は関東の地で門流として出発し、現在、俗に「真宗十派」といわれるが、「親鸞の妻」についても、親鸞は生涯に何人の妻を娶ったかで、恵信尼を唯一の妻とする説、恵信尼の他に玉(たま)日(ひ)姫(ひめ)という妻がいたとする説、はたまた三人説があり、浄土真宗の各派によって見解が分かれるという。
 玉日姫は九条兼実(1149~1207)の末娘である。親鸞研究の第一次史料とされる『恵信尼文書』や親鸞の曽孫・覚如の『御伝鈔(親鸞伝絵)』には玉日姫のことはいっさい記載されていないため、いまだに多くの親鸞研究者が親鸞と玉日姫の結婚を伝説上のこととし否定しているが、公平な目で諸宗派を俯瞰したうえで、作家は、29歳の正月、比叡山を降り法然の門に入った親鸞が、その年の秋、玉日姫との結婚に踏み切るシーンを活写しており、最初の妻・玉日姫との結婚を親鸞の人生において最も重要な出来事として捉えている。

 建永2年(1207)の建永の法難は法然門下の密通事件に端を発する念仏弾圧で、親鸞は僧籍剥奪の上、越後国に流されている。35歳の親鸞と75歳の法然が処罰された理由と背景についても、はなはだ興味ぶかいが、本作では、親鸞はじめての子・善鸞をかかえる玉日姫は都から遠い流罪地の越後についていかず、侍女の恵信尼親鸞に同行して事実上の妻となったと物語る。
 親鸞の子は4男3女と伝わり、うち6人の子女が恵信尼との間に設けられた。
 長男の善鸞のみが玉日姫を母とする。母玉日姫が親鸞の流罪中に死去したとしたこともあり、善鸞親鸞を恨んでいる。のちに善鸞父親鸞から義絶されているが、「父と子」の対立は善鸞出生の時点で芽生えていたと作家はみなしている。のっぴきならぬ宿業、宿縁は物語の全体をリードすることなる。読者は善鸞の存在を陰に陽に意識しながら読み進むことになる。

 流人の親鸞は「愚禿親鸞」と自称した。越後国流刑5年の後、赦免されるも、京都へは帰らず、関東へ向かい、親鸞は関東にあって、妻子を持ちながら、「非僧非俗」の生活を送った。関東が選ばれた理由については諸説あり。定説を見ないが、近年では、信濃善光寺の勧進念仏聖一行に加わっての行動とする見解が有力で、本作もこの説を採っている。

 親鸞を取り巻く人物造形の面白さもきわだつ。
 親鸞49歳時の承久3年(1221)の承久の乱を引き起こした後鳥羽院について、
「ただわがままに育っただけの、子供っぽい暴君で、気位の高い怪物のような存在」と造形している。
 親鸞慈円のもとで得度したとされることがどこまで事実か歴史学ではまだ結論が出ていないらしい。史書・史論書として名高い『愚管抄』の著者として知られる慈円摂関家の出で、関白九条兼実の実弟で、四度も天台座主を歴任、後鳥羽院の護持僧にもなった天台宗の高僧だが、『愚管抄』は暴君後鳥羽院の討幕計画を察知した慈円上皇を諫める目的で著したとする。目から鱗の解釈である。
 親鸞の師・法然の唱えた専修念仏の教えは庶民のみならず多くの公卿や学僧にも帰依するものが多かった。慈円の兄、九条兼実もその一人であるが、作家は九条兼実を「実直な人物であったからこそ、公卿としての責務の重さに心がふさぎ、自責の念に駆られたこともあったろう。だからこそ、兼実は法然の人柄にすがった」としている。
 歴史解釈では、「源実朝は皇子を後継者にしたいとの意向を持っていた」とする見解が注目される。

 とかく宗教者の伝記は宗門の護教派の手になる礼賛調のものが多いが、本作は文学者の公正な目で物語られている。
親鸞の思想形成の過程を丹念にたどることが、親鸞の人物像を描くことにつながる。わたしが書こうとしているのは、偉人の事績をたどる年代記ではなく、一人の人間が青春時代に体験する目の眩むような思想のドラマなのだ」とも、また、「五逆の罪というのが一つのキーワードになっているので、『父と子』というテーマを外すことはできなかった。善鸞の設定には異論もあるだろうが、これは小説なのだと受け止めていただきたい」とも、「あとがき」で述べているが、これら作家のこの著作に懸ける思いは読者に十二分に伝わってくる。
 親鸞の肉食妻帯(にくじきさいたい)といわれる結婚がいかにしてなされたのかなど、いささか興味本位の先入観で、本書をひもとき始めたが、「愛欲の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)」しつつ、親鸞は永遠の生命を得たことを知った。
 動乱の時代相を活写しつつも、数奇な生涯を送った宗教者親鸞の真の姿に迫るべく記述された本作はすでに『空海』や『日蓮』という宗教小説をものした作家三田誠広による快作であり意欲作である。
           (平成28年9月22日  雨宮由希夫 記)

書評『峠越え』 伊東潤

雨宮由希夫

書名『峠越え』
著者  伊東 潤
発売 講談社
発行年月日  2014年1月9日
定価  ¥1600E

 

峠越え (講談社文庫)

峠越え (講談社文庫)

 
峠越え

峠越え

 

 

 家康はいつの時点で本能寺の変を知ったのか、という興味深い問いかけがある。一説によると、家康は勃発前の「本能寺」を知っていたのではないか、光秀の謀叛には家康も一枚絡んでいたのではないか、とも。それはともかく、信長が本能寺の変に斃れなかったなら、天下人としての家康の出番はなく「江戸時代」もなかったに違いない。
 本書は「家康と本能寺の変」を史材とした歴史小説で、武田氏を滅ぼした直後の天正10年4月14日、東海道を使って帰国する信長を、家康が駿府城に迎え饗応するシーンに始まり、本能寺の変が勃発し、信長の死が確認された後の6月4日、自領三河へ帰着すべく「伊賀越え」して伊勢湾の洋上に浮かぶ家康までが描かれている。
 
 本書をひも解く前に、当時の時代背景を略述したい。

 天正10年(1582)3月11日、武田勝頼が天目山で自刃し、甲斐源氏の名族武田家は滅ぶ。武田氏を滅ぼしたのち、信長は今川氏の旧領駿河一国を家康に与える。5月、信長からの招請があり、家康は信長へのお礼を兼ねて、武田の遺臣穴山(あなやま)信(のぶ)君(ぎみ)(梅(ばい)雪(せつ))を伴って安土に伺候する。穴山信君は信玄の甥、勝頼の姉婿で、武田家親類衆筆頭の座にあったが、家康を通じて信長に内応し、勝頼を裏切って敗死させた人物である。5月19日から3日間にわたる安土での饗応の後、家康らは信長から京、奈良、堺の見物をすすめられる。家康らは堺で本能寺の変に遭遇する。家康は生涯に遭遇したどのケースとも違う危機に直面した。信長の横死により、いまや畿内の地は完全に無警察状態となり、行路は難渋をきわめた。とにもかくにも家康主従は伊賀越えの危難を乗り越え、三河へと帰路に着くが、家康と別行動をとった梅雪は途中で土民に襲われ殺害される。

 以上が史実であるが、作家はいかなる物語的構想のもとで史実に立ち向かうのか。コインの両面のように史実と物語的構想が不可分の時、適度な重みがある作品が生まれる。

 家康は6歳から19歳まで13年にわたる人質生活を余儀なくされた。駿府は家康にとって思い出の地である。堪忍自重し石橋をたたいて渡るような家康の生き方は長い人質生活がもたらした劣性コンプレックスから育まれたものと思えるが、本書の作家は凡庸の才しか持たぬ者の生き方を家康は今川氏の執政、軍事である太原(たいげん)雪(せっ)斎(さい)から教えられたと語りはじめている。

 山躑躅の咲き乱れる駿府城内の望嶽亭の庭で、勝頼の首を前にして得意の「敦盛」を披露する“天才”信長と対峙しながら、“凡才”家康が現実と回想を繰り返す————回想にふけりつつ、行きつ戻りつ、現実に引き戻される————という手法のなんと卓抜であることか。「人間50年化天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり……」。宿敵武田氏を滅ぼし、一つの得意の極みに達し舞い踊る信長を見つめながら、家康は何を思ったであろうか。「人間50年」と言われた時代である。敗者勝頼はともかく、家康を死線に這わせた信玄は53歳で逝去しているが、武田氏を滅ぼした眼の前の信長がよもや三カ月も経ないうちに、49年を一期として逝ってしまうとは家康には思いもつかないことであったに違いない。

 永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦い今川義元を破った信長は、翌々年の永禄5年1月、当時松平元康と名乗っていた三河岡崎城主の家康と同盟を結ぶ。信長の同盟者となって、家康の運は開けるのだが、回想シーンとしての「桶狭間」にも、新たな造形が織り込まれているのは小説としての興趣である。

 桶狭間の戦い時、19歳の青年武将であった家康は信長に内応すべく、「義元が6月2日牛の刻、桶狭間の漆山で中食を取る」との機密情報を織田方に伝えたと本書は物語る。桶狭間の内応がのちの同盟への伏線となっているのだ。

 織田徳川同盟は信長の死によって自然解消するまで、表面的には揺るがずに続いた。盟友盟邦として固く結ばれ、互いに親密で助け合って進んだことはこの時代としては珍しいとの見方もあるが、信長の前に命を投げ出して戦いに明け暮れた家康は同盟者としての義務を果たすべく奮戦しているのは事実である。

 信長との同盟は、しかし、家康の側からすれば、信長と手切れになってもおかしくない場面も少なからずあった。その最たるものが長篠の戦いの3年半後に突如起きた築山(つくやま)殿(どの)事件(じけん)[天正7年(1579) 家康38歳]である。家康はその正室の築山殿と嫡男の信康が武田家と内通しているという疑いを信長からかけられる。築山殿は今川義元の姪であり、信康の妻は信長の娘であった。信長に抗拒する実力を持たない時期の家康は泣く泣く糟糠の妻と最愛の息子を殺害せざるを得なかった。家康信康父子の短い会話が読む者を惹きつける。家康は生涯、信康の死を哀惜し家臣の前でも愚痴ったと伝わるが、本書で作家は無実の息子を差し出してまで己れの保身に走る家康の苦悶を描くとともに、信長の狙いが信康の命であること、信長はなんとしても信康を殺したかった、と断じている。   

 家康は信長の忠実な同盟者として振舞いながら、天下取りの野心を絶やすことがなかったと、家康の心中を忖度する見方もあるが、この時の家康は天下どころかいかにして生き残るかしか念頭になかったに違いない。苦悶する家康を描くことによって、信長との同盟の本質は家康にとって対等のものではなく、隷属を強いられたものに過ぎないものであるとしている。信長にとって家康は「今川家と武田家の西進を防ぐ壁」にすぎない存在であれば、武田家が滅んだ今、「己れの存在意義がなくなった」と家康が気づくのは自然である。

 とすれば、「家康の安土訪問」とは何であったか、作家の物語的構想のゆくつく先がおよそ想像がつこうというものである。

「武田家が滅んだことで、信長にとって家康は用済みとなった。それどころか織田家の天下のために、一転して邪魔者となった。そこで信長は家康を安土に呼び出して討ち取ることにした。」家康は安土へ行けば信長に殺される可能性があると身構える。また、家康の上方見物は安土最後の日に、突如、信長から半ば強要に近い形で提案されたと作家は物語る。

 5月21日、家康らは長谷川秀一の案内で京に入る。秀一は信長の近習、目付であるが、道案内に名を借りた監視役である。信長は最小の犠牲で最も煙たい武将の一人である家康を斃せるのだ。『信長公記』によれば、21日に入洛した家康一行が28日に堺へ行くまでの一週間、家康が何をしていたのか明らかではないが、ここで作家のイマジネーションが冴える。秀一から鞍馬行きをすすめられた家康は、梅雪が鞍馬行きを諾としたのに対し、危険を察知して断ったとしている。

 堺での饗応の後、本能寺の変を知った家康は「伊賀越え」の道を選び、別行動をとった梅雪は横死する。本書の展開は表面上、史実の通りだが、その内実はどうであったか。それは本書を読んでのお愉しみであるが、本能寺の変は信長が家康を排除すべく、光秀とともに仕組んだ狂言だった、とする途方もない奇想が盛り込まれているのみ記しておこう。なお作家には短編集『戦国鬼譚 惨』があり、その一篇「表裏者」の主人公は梅雪である。

 本書の書名は『峠越え』。家康の遺訓とされる「人の一生は重きを負うて遠き道をゆくがごとし」が連想されるが、家康生涯75年の中での大危難「伊賀越え」をふまえている。「東照大権現」と崇められる家康の生涯をふりかえれば、信長の最期、秀吉の最期、二人の盛衰をじっくり眺め、彼らを反面教師、他山の石として、堪えるだけの忍耐力と粘りで一歩一歩、堅実に緻密に先へ進んだ人生の成功者である家康が浮かび上がってくるであろう。しかし、神君ではない、若き日の家康はどうであったか。

 人生の大転機となった本能寺の変天正10年時、家康は41歳。その41歳の年の晩春から初夏にかけての、わずか50日余の日々が、この小説の時代(舞台)背景となっていることから明らかなように、作家は大成した神君家康ではなく、若き日の家康の素姿を描きたかったのである。
                 (平成26年3月9日  雨宮由希夫 記)

書評『不抜(ぬかず)の剣』

雨宮由希夫

書 名   『不抜(ぬかず)の剣』
著 者   植松三十里
発行所   H&I
発行年月日 2016年5月8日
定 価    ¥1800E

不抜の剣

不抜の剣

 


 植松三十里は史料を丹念に読み込み史実の裏にひそむ〈真実〉に迫る本格的歴史小説をものする数少ない女流作家である。

 第27回歴史文学賞を受賞した『桑港にて』〔文庫改題『咸臨丸、サンフランシスコにて』〕(2003年)以来、『黍の花ゆれる』〔文庫改題『西郷と愛加奈』〕(2005年)、『お龍』(2008年)、『群青 日本海軍の礎を築いた男』(2008年)、『北の五稜星』(2011年)、『黒鉄の志士たち』(2012年)、『志士の峠』(2015年)、『繭と絆 富岡製糸場ものがたり』(2015年)等々、一貫して幕末明治を舞台とした歴史小説を発表してきた。その植松が日本武道館発行の「月刊武道」に斎藤弥九郎(1798~1871)を主人公とした小説を連載していると聞いて、いかに弥九郎と切り結び、この度はどのような幕末明治をみせてくれるのだろうかと興味を持ったものだ。

 幕末江戸期は史上空前の剣術繁栄期であった。世情不安から剣術が盛んになり、江戸の道場はどこも盛況であった。斎藤弥九郎の開設した神道無念流練兵館は桃井春蔵の鏡新明智流士学館千葉周作北辰一刀流玄武館と並んで幕末江戸三大道場と呼ばれたが、練兵館は西洋砲術を教えることで人気を博したという。

 斎藤弥九郎についての小説はエピソードをあつめた史伝めいたものが直木三十五菊池寛・本山荻舟、童門冬二戸部新十郎らによって書かれているが、本書『不抜(ぬかず)の剣』は斎藤弥九郎の生涯を描いた本邦初めての長編歴史小説である。弥九郎の生い立ちから晩年に至るまでがきめ細やかに描きつくされている。

 弥九郎は能登半島の付け根の越中国射水郡仏生寺村(現在の富山県氷見市仏生寺)の郷士斎藤新助の長男として生まれている。文化12年(1812)、一分銀一枚を懐中に入れ15歳で単身江戸に出た。その折のみじめな体験から「人としての誇りを護るために、剣術を身に着けた」と後年述懐しているが、そもそもは学者への志を抱いての出奔であって、剣士を目指したものではなかったことが知れる。

 旗本能勢氏に奉公しながら、剣術を神田裏猿楽町の神道無念流岡田十松の撃剣館に学んだ。撃剣館で、師・岡田十松に出合い、その門下生の江川太郎左衛門英龍、藤田東湖渡辺崋山らと相知り親交を結んだことが弥九郎の人生を決めた。

 英龍、東湖、崋山に引き続き、大塩平八郎徳川斉昭芹沢鴨高島秋帆鳥居耀蔵吉田松陰桂小五郎、中島三郎助といった幕末のキーマンが続々と登場し、しかも彼らのすべてが斎藤弥九郎と深く関わった人物であることを知るに及び、読者は驚くことになろう。剣豪斎藤弥九郎を通じて大塩平八郎の乱から幕府崩壊に至る幕末の混乱がいとも鮮やかに絵解きできるからである。

 品川沖お台場の建設や伊豆韮山反射炉などの築造で有名な江川太郎左衛門英龍は海外事情や海防問題に深い洞察を持っていた江戸幕府の伊豆韮山世襲代官であるが、弥九郎にとって江川は3歳年下の剣術の同門であり、盟友であり、主従であった。

 文政9年(1826)、29歳で独立し、江川の援助で九段坂下俎橋近くに練兵館を開く。江川はつねに弥九郎に対する経済的援助を惜しまず、片や、弥九郎は江川の良き補佐役・相談役・懐刀 を勤め、江川を支えることが自分に与えられた役目であるとして、”脇役”に徹して行動している。

 天保8年(1837)、大塩平八郎の乱がおこると、江川の命により、乱の真相を探るため、大坂へ赴き、江戸へ戻るや、江川とともに、刀剣行商人に扮して江川の領地である甲斐国の状況を見て回っている。

 蛮社の獄(渡辺崋山高野長英らへの弾圧事件)でも洋式兵法の先覚者・高島秋帆逮捕の際にも、保守的で天性の酷吏というべき鳥居耀蔵に敵視され辛い立場に立たされた江川のために奔走している。

 江川と並び弥九郎に思想的に多大な影響を与えた人物は水戸藩士の藤田東湖である。弥九郎は後期水戸学の大成者の一人である藤田東湖を深く敬愛し、その縁で水戸藩徳川斉昭から下げ渡された会澤正志斎の『新論』に出会う。尊王攘夷理論を確立したこの書物を読み、幕藩体制を解体し、天皇中心の中央集権国家に作り直そうという理論を、幕臣江川家の家臣である弥九郎は「とてつもない説だ」と共鳴し、若い吉田松陰桂小五郎に期待を抱く。水戸学イデオロギーの長州への流入は一つには弥九郎の練兵館を通じたのである。

 英龍、東湖とともに弥九郎の生涯に欠かせないもう一人の人物、桂小五郎木戸孝允)の造形も読みどころである。江戸の三大道場はまた抜群の門脈を誇ったが、長州藩藩士の多くを練兵館に送って学ばせた。桂小五郎練兵館の塾頭を務めるほどの剣客であった。

「平和な時にも乱に備えよ」とするのが神道無念流の心得である。「武」は「戈を止める」と書く。戈を止めるのは楯、ならば武の本質は楯であるとする。今日でいう専守防衛の考えである。討幕運動で、白刃の下を幾度となく掻い潜りながら仲間を見捨てて逃げた桂には「逃げの小五郎」の不名誉なあだ名が伝わるが、実は師弥九郎の教えを頑なに守り抜いたこそのあだ名だったと知る。

 嘉永6年(1853)6月、浦賀に黒船来航。急遽江戸湾内の防備を固めるべく、台場築造の場所を選定する必要に迫られ、幕命によって江川は江戸湾岸を巡視。このとき、弥九郎も同行している。桂小五郎が弥九郎の下僕に扮して、幕府による台場の工事現場を見て歩くのはこの時のことである。

 明治元年(1868)、明治政府に出仕した弥九郎は翌年、造幣寮(後の造幣局)の権判事となる。大塩平八郎の屋敷跡が大阪造幣局となった。大塩平八郎と弥九郎の関わりを知っている桂が弥九郎を招聘したのであった。かくして、”脇役”弥九郎を介し、桂小五郎大塩平八郎江川太郎左衛門がつながっている。なんという奇観であろうか。


 本作は「剣豪小説」とはいえ、剣の修行や剣の道に命を懸ける剣術家の描写がない。郷士出身で剣技という特殊技能で世に出た点では近藤勇土方歳三らと重なる部分もあるが、そもそも、作家はあの時代状況下、農家の惣領息子が農家を離れ、江戸に出ることの意味を弥九郎と父新助の確執、母お磯の愛を通じて物語ることからはじめている。弥九郎を陰から支え続けた妻小岩との夫婦愛も胸を打つ。練兵館の主として剣術を教えるかたわら、時代の改革と進歩に貢献した人々と交流するも、自ら表舞台に立つ事なく、一介の剣客として一人の人間として異色の人生を歩んだ斎藤弥九郎の〈真実〉が鮮明に浮かび上がる力作である。
 (平成28年7月1日  雨宮由希夫 記)
 

「第5回 歴史時代作家クラブ賞」決定!

連絡事項

「第5回 歴史時代作家クラブ賞」決定

 

① 新人賞
片山洋一『大坂誕生』朝日新聞出版
松永弘高『決戦! 熊本城  肥後加藤家改易始末』朝日新聞出版

② 文庫新人賞
新美 健『明治剣狼伝―西郷暗殺指令』角川春樹事務所時代小説文庫

③ シリーズ賞
井川香四郎
辻堂魁

④ 作品賞
澤田瞳子若冲文藝春秋
梶よう子『ヨイ豊』講談社

⑤ 実績功労賞
安部龍太郎

⑥ 特別功労賞
加賀乙彦

【授賞式】  6月15日(水) 日本出版クラブ会館

【歴史時代作家クラブ賞選考委員】
委員長 三田誠広
委員 菊池 仁(文芸評論家)、細谷正充(文芸評論家)、雨宮由希夫(書評家)、森川雅美(詩人)、加藤 淳(編集者)

書評『室町小町謎解き帖 呪われた恋文』

雨宮由希夫

書名『室町小町謎解き帖 呪われた恋文』
著者名 飯島一次
発売  双葉社
発行年月日 2016年5月15日
定価   ¥593E

 

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 飯島一次の『室町小町謎解き帖』シリーズの第二弾である。飯島には双葉文庫に限っても、『朧屋彦六 世直し草紙』、『三十郎あやかり破り』、『阿弥陀小僧七変化』といった人気シリーズがあるが、『室町小町謎解き帖』はつい最近始動したばかりの新シリーズであるに関わらず、すでに第二弾である。


 大阪生まれ江戸育ちの時代小説作家・飯島一次は無類の映画好き、映画を見ない日はないという。その上、街歩きの達人でおまけに人づきあいがよいことこの上なく、散策後の懇親会も深夜まで付き合ってくれる。いったい、いつ執筆しているのか不思議に思わざるを得ない“超人”である。

 

 本シリーズの主人公は日本橋呉服商「三浦屋」の箱入り娘お雪19歳。喜多川歌麿が錦絵に取り上げようとしたほどの超美人で「室町小町」として知られる。三浦屋の主の善右衛門は茶屋遊びもせず酒もさほど好きではない堅物だが、芝居道楽の末に家を飛び出し役者になった倅忠太郎と二階の奥座敷にこもりがちの娘お雪、二人の子供たちの先行きを心配している。特にお雪が捕物好きで首なし死体の一件で下手人を言い当てたと世間に広まれば、金輪際、婿の来手がなくなると気をもんでいる。
 三浦屋のお雪は単なる捕物好きではなく、「狐憑き」であるとの噂を広めたのは蔦屋重三郎である。蔦屋重三郎は歌麿に下絵まで書かせたうえに、「室町小町のきつね憑き、やっつく、やっつく、やっつくな」の戯れ唄を流行らせ、小町娘が人殺しの謎解きをするという戯作を十返舎一九に書かせようとしている。

 

 事件が起こる。
 神田お玉が池で、日本橋堀留町の質屋「上州屋」のひとり娘お松18歳が首を吊っているのが見つかる。
 なぜ首を吊ったのか、自殺か他殺か。
 上州屋には日本橋本石町の両替屋「阿波屋」の次男新次郎が婿入りすることになっていた。縁談も決まっていた娘の死に納得がいかない上州屋の主でお松の父親の彦兵衛は、お雪に、お松が死んだわけを調べてくれと依頼してくる。
 世間では三浦屋のお雪に狐が憑いていて、殺しの下手人を言い当てという噂が広まっており、その噂を頼りに、彦兵衛は娘の死の真相を狐憑きのお雪から聞き出そうとしているのだ。
悪事や変事の謎を解き明かしたいという願望のお雪はこの事件に興味を持つ。

 

同じことを彦兵衛に頼まれた人物がいる。「小舟町の親分」こと弁天の辰吉で、このシリーズの常連になるであろう人物と思われるから、詳しく紹介しておこう。辰吉は南町奉行所同心竹内小四郎の手先、商家の番頭風の40すぎの独り者。子分の貫太と通いの婆さんお兼がいる。お兼の作る茄子の田楽、いわしの生姜煮、大根と里芋の煮しめ、唐茄子の煮付けなどを酒のつまみとして一杯やるシーンには、読者の多くが相伴にあずかりたいと思うであろう。
 辰吉は、上州屋お松の首くくりの一件ばかりはどうにも先が見えないと思っている。自殺では捕物にならないからである。

 お松の死の真相に迫るにはどうすればよいか。
 上州屋を訪ねたお雪は、お松の母お久から形見分けとしてお松が使っていた硯箱を入手し、ある事実に気づく。二重底の硯箱には恋文が入っていたのである。本作の書名「呪われた恋文」の由縁はここにある。
 一方、辰吉と貫太はある妙な噂に気を留める。
 質屋であるはずの上州屋は裏で高利貸しの真似をしているとのこと。また、お松には上州屋の番頭をしていた清吉という言い交わした男がいたが、彦兵衛が清吉をクビにして生木をはぐように二人を引き離したというのである。
 お松は自殺であった。手を下さずに、お松を死に追いやったものがいる……。
 テレビの2時間ドラマスペシャルで、ビデオを巻き戻し、ドラマの冒頭に登場していた人物を確認したい衝動に駆られることがあるであろう。犯人は意外な人物であった。

 物語の時代背景は寛政8年(1796)。
「白河様がご老中を辞められても、少しはお世直しの締め付けも緩んでいるが」、「田沼様は酸いも甘いも噛み分けお方だった」という表現が、蔦屋重三郎、十返舎一九喜多川歌麿山東京伝らが生きた、松平定信以後の時代を巧みに写し取っている。
 江戸一番の美女が捕物の謎を解く。お雪の推理で事件は解決するのだが、本書は単なる推理小説では終わらず、寛政期の江戸の文化状況の一端を活写しているのである。
 江戸弁で綴られた文体と有無を言わせぬテンポのよさが小気味良い。背後に見え隠れた悪党をあぶりだすシーンはことのほか面白く、胸のすく思いがする。是非、本書を手にとって、読者各位が存分に味わって欲しい。

 

飯島一次(いいじま・かずつぐ)は1953年、大阪生まれ。2007年、作家デビューという。「愉しんでいただければそれでいい」とおっしゃるエンタ―テナーであるが、歴史知識も豊富で、大いに注目したい歴史時代小説家である。
(平成28年5月23日 雨宮由希夫 記)

書評『使の者事件帖(三) 何れ菖蒲か杜若』

雨宮由希夫

書名『使(つかい)の者事件帖(三) 何れ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)』
著者名 誉田龍一
発売  双葉社
発行年月日 2016年5月15日
定価   ¥611E

何れ菖蒲か杜若-使の者の事件帖(3) (双葉文庫)
 

 猪(いの)(猪三郎)、鹿(しか)(鹿之丞)、蝶(ちょう)(お蝶)の3人の殺し屋が江戸の町にはびこる悪い奴らを退治する痛快この上ない『使(つかい)の者事件帖』シリーズの第三弾である。
 第三弾ではじめて三人に巡り合う読者のために、三人のキャラクターを略述したい。

 猪三郎は本シリーズの書名になっている「使の者」、人から頼まれたちょっとした用事や言伝(ことづて)を請け負う商売。鹿之丞は猪三郎を見下ろすほどの長身で役者のような目鼻立ちの水も滴るいい男。団扇(うちわ)の貼り替えを生業(なりわい)としているが、貼り替えは口実で、女一人の家に上がり込んでは情を通じ合うこともしばしば。当人は「一時の愉しみを与えている」と言っているが。お蝶は深川黒江町の楊枝屋「姿屋(すがたや)」の看板娘で、愛くるしい大きな目と、つんと上を向いた高い鼻、厚ぼったい唇の美人である。
 三人は南町奉行所内与力・村雨卯之助の指揮の下、秘密の仕事を請け負っている。
 三人が殺しに使う武器も決まっている。猪三郎は二尺(約60センチ)ほどの棒が3本、鎖でつながっている三節棍(さんせつつこん)。鹿之丞は「くくり」という一尺ほどの「へ」の字に曲がり先が大きく広がっている刀身の刃物である。お蝶はただの簪より太く、長さも7寸(約21センチ)以上もある沖縄簪(かんざし)である。 
 三人は内与力村雨の上司である南町奉行の筒井和泉守政(まさ)憲(のり)が長崎奉行であった頃、長崎で拾われた。三人とも捨て子であった。筒井は村雨に三人の養育を任せ、村雨は三人に、体術、忍びの術、暗殺術を叩き込むなどしてずっと育ててきた。筒井の江戸町奉行就任とともに、三人は江戸に出てきた。
 三人と村雨の四人が一堂に会するのは習得した技を使う秘密の仕事が起きたときで、お蝶が働いている姿屋の裏に位置する納屋がひそかに集まる場所である。羽織袴に二本差しの村雨卯之助は「必殺仕事人」の中(なか)村主(むらもん)水(ど)を彷彿させる。

 さて、本書第三巻。
 門前仲町の錦絵の版元龍(りゅう)海堂(かいどう)で「美女入れ札」が開催される。いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)のコンクールである。大関(第一位)の材木問屋菊村屋の娘お半(はん)と小結(第三位)の生糸問屋の娘お直(なお)は誰もが納得する美形だったが、関脇(第二位)の小間物問屋山崎屋の娘おまさはどう見ても美女とは言い難い容貌であったが上位にランクされた。
「美女入れ札」の翌日、事件発生。第三位、第二位の女が続けざまに殺され、第一位の女の許婚だった虎という大工が下手人に浮上してくる。
「使いの者」猪三郎たちが調べたところ、事件の真相が明らかになってくる。
 悪人たちの標的は関脇(第二位)の山崎屋六兵衛の娘おまさで、病床の六兵衛を死に至らしめての山崎屋乗っ取り計画がどす黒く進行していたが、悪徳奉行所同心と瓦版屋がグルになった一味を、猪三郎たちはきっちり地獄へ送るべく命がけで始末する。一件落着である。
 が、内与力の村雨は、どうにもすっきりしない、まだ裏がある、裏で絡んでやがる奴がいる、身内である奉行所内に悪の片割れがいる、とにらんでいる。やがて、殺し屋三人の殺しの手口を真似た連続殺人事件がおきる。三人と村雨のやっていることを知っていると偽物グループは暗にほのめかしているのだ。凍り付く四人……。
 これ以上、ストーリーを追ってしまうと読者と書き手に失礼なので控えるが、有無を言わせぬテンポのよさが小気味良い。背後に見え隠れた巨悪の首魁をたたき斬るシーンはことのほか面白く、胸のすく思いがする。是非、本書を手にとって、読者各位が存分に味わって欲しい。
 筒井(つつい) 政(まさ)憲(のり)は本書に登場する唯一の実在の人物である。長崎奉行を経て、文政4年(1821)より南町奉行を20年間務めている。シーボルト事件では奉行として高橋景保を捕縛、尋問し、ロシアのプチャーチンが国書を携えて長崎に来航した際には川路聖謨とともに交渉全権代表に任命され対露交渉に当たっている。安政6年(1859)死去。享年82。

 筒井に拾われたとき、三人は何歳であったのか? それぞれの出自は? 
 猪三郎は三節棍(さんせつつこん)を長崎の頃より使っていたとある。またお蝶の沖縄簪は沖縄の女性が琉球王朝時代、長い髪を撒いて止めていた銀の簪「ジーファー」と呼ばれるものである。手掛かりはそのあたりからか。
 三人、三羽烏。二男一女、一女のお蝶を猪三郎と鹿之丞が取り合うという風でもない。猪三郎はお蝶に気があるようでないようで。色事に長けているのは鹿之丞だけであるのは確かである。三人の位置関係は微妙だが捨て子であったということが独特の一体感を醸し出している。
 とはいえ彼らが活躍する時代背景は、文政年間であることがわかった。
 続編が待たれる。
 明治維新まではまだ日も遠いが、激動の幕末は指呼の間である。事件帖に筒井政憲ら実在の人物がからんでくることはあるのか。若き猪三郎、鹿之丞、お蝶という目の離せないトリオの必殺稼業がさらに続くと思うからである。

 誉田龍一(ほんだ・りゅういち)は大阪府泉佐野市出身、1963年生まれ。2006年、『消えずの行灯』で第28回小説推理新人賞を受賞して、デビューした。『使いの者の事件帖』シリーズの他、『殿さま同心天下御免』シリーズ、『定中役捕物帖』シリーズなどがある。大いに期待したい歴史時代小説家である。
         (平成28年5月20日 雨宮由希夫 記)