歴史時代作家クラブ公式ブログ

現在活躍中の歴史時代作家が多数所属する文学団体です。時代文庫活性化を目指し、各社から出ている時代小説文庫等の紹介もします。初めにこちらをお読みください。→http://rekishijidaisakkaclub.hatenablog.com/entry/2014/08/01/105546

大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第3回 冒険世界

 今週も軽くツッコんでいこうと思います。
 海軍兵学校の身体検査に落ちた金栗四三(しそう)は、実家の畑仕事を手伝っていました。兄の実次に説教されます。
「いつまでくさっとるとか」
 四三はいいます。進学はあきらめた。実家の畑仕事を手伝う。実次は、手は足りている。気を遣わないで、お前の好きなことをしろ、といいます。そこで四三は東京高等師範学校の手引きを見せるのです。お前は学校の先生になるのか、と納得する実次。さらに実次は手引きに、嘉納治五郎、の文字を見つけるのです。
 四三は幼いときに、父に連れられて嘉納治五郎に会いに行きました。嘉納治五郎に抱っこしてもらうことが目的でした。その目的は果たせませんでした。しかし父は抱っこしてもらったと家族に嘘をいいます。四三はそれをずっと気にしていたのです。
 嘉納治五郎を乗り越えようというのだな、と実次は感激して四三をほめます。
 こうして四三は東京高等師範学校に入学することになったのです。
 四三の見送りは、祝砲を鳴らすなどして村総出で行われました。
 東京へ向かう汽車の中で、四三は「冒険世界」という雑誌を目にします。そこに「天狗倶楽部」のことが記されていました。一緒に東京に向かう友人の美川秀信が説明します。天狗倶楽部とは、スポーツ同好会、だよ。スポーツ? と四三は聞き返します。
「早い話、遊び人さ」
 秀信はいいます。納得する四三。
 ここで場面は天狗倶楽部のスポーツする様子に移ります。その中のスター、三島弥彦は「冒険世界」の女性記者にインタビューを受けていました。必死になったことなど、一度もない、と三島は言い切ります。
「僕は一度くらい負けてみたいと思っている」
 とうそぶく三島。負けた人間の屈辱を味わってみたいね、といって三島は女性記者のもとから去って行きます。
 東京に着いた四三。財布がないことに気づきます。市電の中でスられたのです。この出来事から、四三はすっかり電車嫌いになりました。
 四三たちが学校の寄宿舎に着いた時には、すっかり夜になっていました。四三は寄宿舎の監督係、略して舎監の永井道明にさっそくしごかれることになります。
 四三は朝礼で、校長の嘉納治五郎が生徒たちに話す様子に見とれます。
 四三の朝は、冷水浴と乾布摩擦で始まります。食事はよく噛んで多く食べ、皆がいなくなっても食堂に残ります。皆の最後に寄宿舎を出るのです。そして走ります。一里を20分で行き、誰よりも早く学校に着きます。
 夏休みに四三は熊本に帰ってきます。幼なじみのスヤ(綾瀬はるか)と会い、和やかな時を過ごします。そして家族との食事の時、四三はスヤが見合いをすることを聞かされるのです。
 兄の実次が四三にいいます。
「偉か人は、熱中する才能ばもっとるばい」
 四三もひとかどの人間になるには、熱中する何かを見つけることだ。四三は兄の言葉を噛みしめます。
 四三は秀信と東京に帰る汽車に乗っていました。すると汽車を自転車で追いかける女学生を見つけます。驚いたことにそれはスヤでした。四三の見送りにやってきたのです。汽車の窓から帽子を振って応える四三。
 っていうかこの汽車はCGじゃなくて本物かよ。本物の汽車をわざわざこの場面のために走らせたのか。本気出しすぎだろうNHK
 東京に着いた四三は走る男たちを目撃します。まぎれ込んで走っていた車夫の清に四三は「マラソン」という言葉を聞きます。
 四三にとって走ることは、あくまで移動手段でした。しかし目の前の彼らは、走りたいから走っている。兄の言葉がよみがえってきます。熱中する何かを見つけることだ。
 寄宿舎に帰った四三は校内でマラソンが行われることを知るのでした。

末國善己さん新刊

会員・末國善己さんの新刊です。

野村胡堂銭形平次短編集から「これは」と思う物を集め、順番をコーディネートし、それぞれの短編に解説(読みどころ)がついています。

 読者の皆様、よろしくお願い致します。

 

大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第2回 坊っちゃん

 今週も軽くツッコんでいこうと思います。
 1960年(昭和35年)浅草。寄席にて古今亭志ん生ビートたけし)が語ります。
「もうすぐ明治が終わるってえ頃に、羽田の競技場で開催された国内初のオリンピック予選会。当時の世界記録を27分も縮め、見事優勝を果たし、彗星のごとく現れた、日本初のオリンピック選手、いよいよ韋駄天、金(かな)栗(くり)四三(しそう)のお話の始まりであります」
 時代は1877年(明治10年)にさかのぼります。熊本の山深い集落の春冨村に、代々酒造業を営んできた金栗家。そこに男の子が生まれます。父の金栗信彦田口トモロヲ)は体が弱く、六代続いた酒蔵をつぶしてしまいました。しかし子宝には恵まれ、四男三女をもうけました。その下から二番目の子が四三でした。父が43歳の時の子どもだったため、そう名付けられたのでした。
 赤ん坊の頃の四三は体が弱く、夜泣きは満二歳まで続きました。
 若き日の嘉納治五郎は熊本に来ていました。柔道のことを、外国人などに紹介していました。四三は5歳になっていました。祖母のスマがいいます。「嘉納先生にだっこしてもろうたら、丈夫な子に育つばい」。それを聞いて父の信彦が起きてきます。四三を連れて、嘉納の元に向かおうというのです。
 嘉納のいる熊本市までは10里(40キロ)。その距離を父と四三は行きます。とうとう父と四三は嘉納のいる学校にやってきます。ところが人が多く、嘉納が柔道をしている様子を見ることができません。父と四三は諦めて帰ります。しかし家に帰り着くと父は、四三が嘉納に抱っこしてもらった、と家族に嘘を言うのです。
 四三は尋常小学校に入学しました。体が小さく、学校までの道を兄たちについて行くことができません。仕方なく家に戻ってみると、厳しい長兄の実次(中村獅童)に叱られます。実次は「学校部屋」と呼ばれる二畳ほどの空間に四三を閉じ込めようとします。勉強するか、走るか、と実次は問います。四三は泣きながら学校までの道を行くのでした。
 実次の妻がお産をする様子に聞き入った四三は、その特殊な呼吸法に気がつきます。それをヒントにして試行錯誤をしているうちに、二回吸って二回吐くことが、走るのにもっとも苦しくないやり方だと発見します。
 10歳になった四三は高等小学校へ進学。往復三里(12キロ)を走る「韋駄天通学」を実行していました。ほかの子どもたちは、とても四三の走りについていけません。
「四三は、とつけむにゃあ、男ばい」
 と、子どものひとりがいいます。
 四三の父は息を引き取ります。「四三は嘉納治五郎先生にだっこばしてもろうたけん」と言い残して。
 1905年(明治38年)。四三は中学に進みました。中学からは寄宿舎生活でした。週に一度、5里(20キロ)の道のりを走って実家に帰ります。四三はその道中、日本の海軍とロシアのバルチック艦隊が撃ち合う様を目撃するのでした。そして帰り着いた四三は長兄の実次に、海軍兵学校を受験しようと思っていることを告げるのです。兄たちを始め家族はこれに大賛成でした。
 中学で四三は風邪の予防法として冷水浴を教えられます。四三はいうとおりに、毎朝頭から水をかぶり、風邪をひきます。
 ここで「とつけむにゃあ」の意味が明かされます。とつけむにゅあ、とは、とんでもないの意味でした。
 四三は海軍兵学校の試験を受けます。
 四三は実家の近くの橋の上で物思いに沈んでいました。そこへ自転車で娘が通りかかります。父を診てくれていた医者の娘、春野スヤでした。話しかけてくるスヤに四三は、海軍兵学校の試験に落ちたことを打ち明けます。目の検査で不合格となったのです。しかしスヤは、将来四三の奥さんになる人は喜ぶのではないかといいます。軍人は戦争になったら、お国のために戦わなくてはならない。でも戦争にならなかったら手柄を立てられず、出世は難しい。どちらにしても奥さんは報われない。四三は思います。なぜこの人は時々、将来の嫁の気持ちを代弁するのだろう。
 って、美人でお嬢様のスヤ(綾瀬はるか)のどこに四三に惚れる要素があるんだ。そこんとこどうなんだよ、クドカン
 その頃の吉原。若き日の古今亭志ん生美濃部孝蔵は勘定を払うよう、追いかけられていました。逃げ込んだ先は寄席でした。そこで孝蔵は橘家円喬の落語を聞くのです。この人の弟子にならなってもいい、と孝蔵は思うのでした。
 場面は熊本に戻ります。四三は友人が東京師範学校を受けることを聞かされます。その入学手引き書に、四三は嘉納治五郎の文字を見つけるのでした。
 

大河ドラマウォッチ「いだてん 東京オリムピック噺」 第1回 夜明け前

 今年も軽くツッコんでいこうと思います。よろしくお願いします。
 1959年、落語家の古今亭志ん生ビートたけし)はタクシーにて寄席に向かっていました。渋滞で進めません。
 所変わって東京都庁田畑政治阿部サダヲ)は東京にオリンピックを呼ぼうと、神経質になっていました。そして場面はオリンピック開催地選考会の地、ミュンヘンへ。平沢和重(星野 源)が東京招致のためのスピーチを始めました。
平沢は日本の小学校の教科書を取り出して話します。「五輪の旗」という話が載せられている。そこにはこう書かれている。「全世界からスポーツの選手がそれぞれの国旗をかざして集まるのです。すべての選手が同じ規則に従い、同じ条件のもとに、力を競うのです。遠く離れた国の人々が、勝利を争いながら、仲良く親しみあうのです」。平沢はいいます。
「そのときがついに来ました。五輪の紋章に表わされた第五の大陸にオリンピックを導くべきではないでしょうか。アジアに」
そして東京にてオリンピックが開催されることが決定したのです。
翌年の1960年。志ん生は寄席でオリンピックの話をしていました。そして場面は1909年(明治42年)に移っていくのです。
柔道の創始者、そして後に日本スポーツの父と呼ばれる嘉納治五郎役所広司)はフランス大使館に向かっていました。嘉納は駐日仏大使のジェラールに、日本のオリンピック参加を要請されます。ジェラールはいいます。「オリンピックを欧米の白人だけのお祭りから、世界規模の平和の祭典にしたい」。
山本未來のナレーションが説明します。当時の日本は日清戦争日露戦争に勝ち、アジアの雄、そして神秘の国と世界に知られていました。
嘉納は日本をオリンピックに参加させるための適任者として選ばれたのです。
嘉納は職場である東京高等師範学校にやってきていました。嘉納はこの学校の校長だったのです。次のオリンピックが開かれる、スエーデンのストックホルムから、教授の永井道明杉本哲太)が帰ってきました。意外にも永井は、日本のオリンピック参加に反対します。日本人は体ができていない、と永井はいうのです。嘉納は質問します。そもそもオリンピックは楽しいのか、楽しくないのか。永井は答えます。
「体も心も未熟な若者に一国の命運を託するという意識が何を生むか」
 ドランドの悲劇、を永井は説明します。ロンドンオリンピックのマラソンにて、イタリア代表のドランドは四回も気を失い、死に体でゴールテープを切った。勝ち負けにこだわる人間の醜さを、競技スポーツの弊害を永井は見たという。
「面白くないねえ」
 と嘉納はいいます。肉体的に未熟な日本人が走ったら、
「死人が出ますよ」
 と永井は言い切ります。
 しかし諦めきれない嘉納は、文部省に掛け合います。そこで日本体育会会長、加納久宜に母体となる団体を頼もうとします。しかし即座に断られてしまいます。
「スポーツなど下らん」
 と加納はいいます。日本人に必要なのは体育だ。子どもたちに健康な肉体を授けるのがわれわれの使命だ。嘉納は言い返すことができませんでした。
 嘉納は銀行家、三島弥太郎の邸宅の、園遊会に参加していました。三島(小沢征悦)にオリンピックの説明をしようとすると、
「私はスポーツというものが、心底嫌いでしてな」
 といわれてしまいます。そこへ野球をやっていた青年が、ボールをキャッチしようと飛び込んできます。三島の弟の三島弥彦生田斗真)でした。
 野球を楽しんでいたのは天狗倶楽部と名乗る面々でした。次は相撲を取ろうと、上半身裸になります。
 って、西郷どんにつづいてまたしてもオバサマ方のハートをキャッチかよ。生田斗真を脱がせるとは、NHKの本気を感じます。
 ナレーションがいいます。
「明治の世に、こんなにウザくてチャラい輩がいるわけないと思うでしょうが、残念ながら実在したんです」
 帝大、早稲田、慶応などトップエリートが顔を連ねる、スポーツを愛する集団でした。
 しかし学校に帰ってきた嘉納は天狗倶楽部が気に入りません。「飲んだくれのアンポンタンめ」。と吐き捨てます。
 嘉納はオリンピックの参加を諦めることにします。フランス大使館にやってきました。大使のジェラールは、今、ストックホルムから届いたといって、スタジアムの見取り図を嘉納に見せます。ここに集まってスポーツを見る、とジェラールは説明します。
「見る」
 その発想に嘉納は驚きます。さらにジェラールはストックホルムオリンピックのポスターを見せます。そこには他国の国旗と共に、日の丸が描かれていたのです。嘉納はオリンピックの不参加をジェラールに申し出ることができませんでした。
「お受けいたします」
 と宣言してしまうのです。スポーツで国際的に交わることは、世界平和の実現に役立つでしょう。と嘉納は付け加えます。
 嘉納はオリンピックに向けて勝手に動き出します。嘉納のいる校長室に教授の永井と日本体育会会長、加納久宜がやってきます。加納はいいます。
「体育は教育。面白さなど不要」
 永井もいいます。
「勝ち負けにこだわるのは下である」
 嘉納は反論します。参加することに意義がある。国を背負ってだの、負けたら切腹だのというのはちがう。平和のための真剣勝負。
「相手を憎むのではなく、認めた上で勝とうとする。相互理解だよ。それがオリンピックの精神であり、日本の武道の精神だ」
 加納は、今の日本に、世界レベルの選手などおらん、といいます。嘉納は「おります」と反論します。どこに、という加納。「どっかに」という嘉納。
 嘉納の行動に、天狗倶楽部の面々は浮かれます。ビールを飲み、またしても上半身裸になります。
 って、サービスしすぎだろう、NHK。ここで肌脱ぎになる必要はあるのか。
 嘉納は天狗倶楽部に相談します。オリンピックに出るための選手を選考するための予選会を開くのはどうか。弥彦(生田斗真)がいいます。どうせなら東京のオリンピックを目指しましょう。
 こうしてオリンピックに送り込む選手を選抜するための運動会を開催することになったのです。
 当日となり、マラソン競技が、19名の選手によって行われました。雨の中、マラソン競技は、次々に脱落者を出していきました。そしてひとりの選手が戻ってきたのです。
「韋駄天だ」
 と嘉納は叫びました。タイムを計っていたところ、その速さは世界記録を更新していました。嘉納はゴールしたその選手を抱き留めます。山本未來のナレーション。
金栗四三。彼こそこのオリムピック噺の主人公なのであります」

 

『歴史こぼれ話』 第1回「踏絵とキリシタン(その1)」

 歴史小説作家、時代小説作家の皆さん、いつも面白い物語をありがとうございます。


 さて、最近の皆さんの上梓された作品を読んでみますと、ほとんどの単行本の最後に「参考文献一覧」を載せていることに気がつきます。基本的な史料を調査し、研究書を読み込んでから筆を執られていることがよくわかり、そのご苦労に頭の下がる思いです。史実に即した確固とした設定を構築することは、たとえフィクションであってもそこに「物語のリアル」を与えるための重要な要素になっていることは間違いないでしょう。
 ただ私などは、皆さんがお書きになるのはフィクション=作り話であって、人権に対する配慮がなされたうえで、歴史解釈の明らかな誤りさえなければ、自由な想像力の赴くまま何を書いてもいいと思うのですがいかがなものでしょうか。
 そして何より歴史研究の世界は日進月歩。従来の学説が否定され、昨日まで常識として考えられていたものが、今日からは新しい歴史認識に取って代わられることも珍しいことではありません。

 そこでこのコーナーでは、気になる最新の歴史研究の成果・蘊蓄をご披露してみたいと思います。もちろん私は一介の時代小説ファンで歴史研究者ではありません。したがって、これから記すことは、あくまでも研究者が発表した書籍・論文を自分なりに解釈したものであって、文責はすべて私にあることをあらかじめお断りしておきます。

 

 第1回目の今回は、2018年に世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」にちなんで、潜伏キリシタンとその世界に目を向けてみましょう。
 さて、かつては隠れキリシタンと呼ばれることが多かった潜伏キリシタンは、遠藤周作の『沈黙』をはじめとする作品に取り上げられ、その苦難の歴史が描かれています(ちなみに私にとっての原体験は、白土三平の『サスケ』で白い着物を着て首に十字架をかけたキリシタン母娘が生きながら火あぶりに合うシーンです)。禁教令下の幕府の弾圧にも耐え、信仰を貫き通した殉教者というイメージが強い彼らですが、最近の研究で悲劇史とは異なるその実相が浮かび上がってきました。


 キリシタンへの弾圧、取り締まりと聞いて第一に思い浮かべるものに「踏絵」がありますが、現在の高校教科書では、信仰の対象として崇める神や聖人の画像を踏ませる行為を「絵踏」、踏まされる聖画像類を「踏絵」と区分けして使用しています。なお、「絵踏」に当たる「影踏(えいふみ・かげふみ)」(島原藩熊本藩)、「像踏」(小倉藩)や、「踏絵」に当たる「影板(えいいた・かげいた)」(熊本藩)という地域ごとの呼称も記録に残っています。
 また、私たちは全国いたるところで絵踏が行われていたと思いがちですが、実際に江戸時代を通じて行われていたのは、九州北部の一部(長崎と肥前・肥後・豊前・豊後・筑後の各国にあったいくつかの藩と地域)と会津藩のみに限られていました。キリシタンが多くいた九州というのは何となく理解できますが、本州で唯一行われていた地域が東北の会津藩だったというのも興味深い事実です。


 さて、踏絵を使った絵踏は、当時、どのように行われていたのでしょうか。私たちのイメージする絵踏は、町や村の住人が奉行所に集められ、お白洲で役人監視のもと踏絵を順番に踏まされて、どうしても踏めないキリシタンが神の名を呼びながら泣き崩れる……みたいなドラマチックなものではないでしょうか。その後、女性は裸にひん剥かれ、逆さ吊りや蛇責めなど、「ええい、信仰を捨てんかっ」と役人の残酷な拷問が待っている……と、これは石井輝男監督の『徳川女刑罰史』の世界でしたね。


 長崎の実例から見ていきましょう。当時の長崎は、長崎奉行所管轄下の天領(町方)と、長崎代官管轄下の郷方に分かれていて、絵踏は町方から始まり、郷方へと移行しました。毎年正月2日に長崎奉行所から町年寄に踏絵が貸与され、翌日には自宅でまずは町年寄の絵踏が行われ、4日から8日まで各町・各戸を巡回し、武士・地役人・寺社方・遊女に至るまで漏れなく実施されました。実施にあたっては正装で役人を迎え入れ、煙草盆や菓子、酒や吸い物を出してもてなすなど華美な接待が行われていたようで、その様子をオランダ商館医のシーボルトが描いた絵が残っています。この絵は教科書などでよく目にすることと思いますが、正月のしつらえが残るなかで行われている絵踏には緊迫感や悲壮感などまったく見当たらず、正月の年中行事となっていた絵踏の様子が描かれています。特に遊女が絵踏をする日には、着飾った遊女たちを一目見ようと貴賎を問わず多くの見物人が押し寄せ、厳粛性を求める町役人とのあいだでしばしば口論に発展したそうです。
 町方での絵踏が終わると、次は郷方へ移行します。郷方の絵踏は各家を巡回するのではなく、住民を庄屋宅など特定の場所に出頭させて行っていました。周辺には市が出たりして絵踏が一種の興行化していた実態が見られます。


 続いて各藩の実態を見ていきます。
 驚かれるかも知れませんが、九州で絵踏を実施していた14藩のうちで自前の踏絵を持っていたのは熊本藩肥後国)と小倉藩豊前国)の2藩だけで、残りの藩はすべて長崎奉行所から借用して実施していたのです。長崎奉行所から踏絵を借用することは、取りも直さずその藩が幕府の禁教政策を遵守することを示し、恭順する姿勢を明確にする行為でもありました(自前の踏絵を持っていた平戸藩などは、これを廃棄したうえで貸与を希望しています)。
 借用した踏絵をなくす失態をおかした藩もありました。先に書いたように、長崎奉行所は、借用を希望する藩に踏絵を貸し出していました。貸与にあたっては厳重な管理を求め、借用した藩も慎重に取り扱っていましたが、何と文化2年、福江藩支藩富江藩(肥前国)では絵踏巡回中、天草灘を航行している際に何らかの理由で踏絵1枚を紛失してしまったのです。


 大村藩肥前国)ももともとは自前の踏絵を持っていましたが、長い間使っているうちに毀損したため、満足な絵踏が行われない状況が続いていました。そうしたなか、明暦3年に多数のキリシタンが検挙される大事件(郡崩れ)が起こりました。事の重大さに慌てた大村藩は、即座に長崎奉行所へ踏絵の貸出を申し出ます。絵踏の中断が郡崩れの原因として幕府から糾弾されることを恐れた迅速な対応だったようです。
 島原天草一揆で有名な天草地方は、一揆後、支配替えが繰り返されたのち、天領として幕末を迎えます。天草では島しょ部をより効率的に巡回するための3系統の巡回ルートを確立していました。東廻りルートが基本だったようですが、東廻りと西廻りを同時に行い、双方向から行うことでより効率化を目指した年もあったようです。
 同じく天領五箇荘は山間部の僻地であったため、絵踏の実施も大変だったことが記録に残っています。役人はまず天草内で絵踏を行ったのち、海路と陸路で五箇荘に向かい、到着すると庄屋宅の庭で絵踏を行いました。村内の男女は正装して絵踏に臨み、地域社会ならではの統制が取れていたようです。一方、役人側には五箇荘の物珍しさもあってか、物見遊山的な雰囲気が見て取れます。
 また、どんな世の中にも表と裏があるように、絵踏にも公然とした免除規定がありました。年貢を早く納めた者や歩行困難者(小倉藩)、藩にとっての功労者や一定額の献金を行った者(熊本藩)、流行り病で村ごと免除された事例(天草)など、いつの世にも通じる「魚心あれば水心」の日本人的抜け目なさに驚かされてしまいます。

 

 ここで紙幅が尽きました。次回は、絵踏の実施にあたって無くてはならない踏絵そのものについて蘊蓄を傾けてみたいと思いますので、よろしければまたお付き合い下さい。

 

【参考文献】
  宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』(吉川弘文館、2014年)
  安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』(吉川弘文館、2018年)

末國善己さん新刊

会員・末國善己さん編纂の新刊です。

 アマゾンより転載:

 死ぬ用意はあるか? 出来ております。大和八郎少年、コードネームは〈本部X13〉。彼に下された指令は、上海郊外の米軍秘密要塞の発見・爆破であった。X13号は三つの特殊兵器を携えて単身川辺の湿原地帯に降り立つ……(表題作)。海軍少年特務員東忠三が、満洲の北方、ケルレン王国の再興に孤軍奮闘する「血史ケルレン城」等、冒険小説・スパイ小説の傑作を八編収録。

 

 

読者の皆様よろしくお願い致します!

既刊はこちら! すべて山本周五郎作・末國善己編纂です。