歴史時代作家クラブ公式ブログ

現在活躍中の歴史時代作家が多数所属する文学団体です。時代文庫活性化を目指し、各社から出ている時代小説文庫等の紹介もします。初めにこちらをお読みください。→http://rekishijidaisakkaclub.hatenablog.com/entry/2014/08/01/105546

書評『薬込役の刃 隠密奉行柘植長門守4』

書 名  『隠密奉行 柘植長門守4 薬込役の刃』
著者名   藤 水名子
発 売   二見書房
発行年月日 2017年11月25日
定 価   ¥648E

薬込役の刃 隠密奉行 柘植長門守4 (二見時代小説文庫)

薬込役の刃 隠密奉行 柘植長門守4 (二見時代小説文庫)

 

 
 田沼(たぬま)意次(おきつぐ)は寛政の改革の推進者・松平(まつだいら)定信(さだのぶ)が登場する以前、異例の昇進を遂げ、ほぼ15年間にわたり幕府中枢で権勢をふるい、いわゆる田沼時代を現出させた政治家である。人気シリーズ藤 水名子の『隠密奉行 柘植長門守』はその田沼の引き上げにより順調に出世街道を歩んできた柘植(つげ)長門守正寔(ながとのかみまさたね)を主人公とした歴史時代小説である。意次は正寔を見込んで佐渡奉行長崎奉行等の遠国(おんごく)奉行を歴任させ勘定奉行にまで引き上げてくれた正寔の恩人であるが、一方で、正寔は意次の政敵・松平定信と密かに誼を通じその命を帯びて行動する「隠密奉行」であるという設定が本シリーズの骨格となっている。
 田沼意次天明6年(1786)8月、意次を寵愛した10代将軍徳川家治(いえはる)の死の直後、失脚し、謹慎の身となる。

 シリーズ最新巻の冒頭の場面は謹慎の身となっている意次を正寔夫妻が訪い、妻絹栄(きぬえ)が習い覚えた東坡肉をふるまうシーンである。東坡肉は北宋の詩人・蘇軾(そしょく)が左遷先の杭州(こうしゅう)で考案したとされる浙江(せっこう)料理で、中央政界の復帰、左遷を繰り返した蘇軾の故事にあやかり、失脚中の意次に「どうか、望みをなくされませぬように」という夫妻の思いが込められている。さすがに『涼州賦』、『赤壁の宴』など中国を舞台とした数々の歴史小説の傑作をものした作家藤(ふじ)水名子 (みなこ)ならではの演出である。

 その数日後、田沼家の用人・潮田(うしおだ)内膳(ないぜん)が正寔を訪れるところから、物語が動き始める。「田沼家の要人」を名乗る人物を、この時易々と自邸に迎え入れたことが、後々己の身に禍を招くことになるとは正寔は露知らない。
 陸奥白河藩主の松平定信は8代将軍・吉宗の孫にして、将軍家の後嗣にとの声もあった切れ者だが、本シリーズの始まりの頃は正寔にとって定信は「小賢しい才子面の鼻持ちならぬ若造」にすぎなかった。正寔はこれまで何度か定信の言う「頼み事」とやらを聞き入れ、定信のために命がけの働きをしてきたが、それは正寔自身がそれをもっともだと判断したからであって、我が身を堕として定信の走狗になったのではないとの自負が正寔にはある。

 天明7年(1787)6月19日、松平定信は漸く老中首座に就任した。風貌もさわやかな28歳の青年老中の誕生であり、“質素と倹約、文武奨励に淫風矯正”を標榜した松平定信寛政の改革のはじまりでもある。

 ある日、正寔は定信から白河藩上屋敷に呼びだされて、「昨年のことだが、田沼家の用人潮田某が、そちの屋敷を訪ね、田沼家の隠し財産のことを告げたのではないか?あるいは、最も信頼できる田沼派のそちに、隠し財産を託したのではないか?」と問い質される。
 幕府は意次に謹慎を命じる際、大坂の蔵屋敷に保管されていた財産をはじめ、家治の代に加増された二万石も神田橋御門外の江戸屋敷も没収していた。さらに、国元の遠州相良城を幕府は徹底的に破壊し尽くし、そこに秘蔵されていた金品と穀物をすべて押収した。だが、定信はそれでも納得せず、それ以外にも、まだ隠し財産があると、本気で思い、奪おうとするのは権力者側の横暴ではないかと正寔はあきれる。
 本当に、意次の隠し金があるのかというその一点に正寔の興味は集中し、核心に近づくほどに正寔は刺客につけ狙われる。あくまでも陰にて定信の役に立つべき者としてふるまう正寔は世間的には一応田沼派とされているが、田沼派と反田沼派の暗闘、幕閣内での容赦のない田沼派の粛清も絡み、読者の予断を許さない展開となってくる。

 副題に「薬込役の刃」とある。薬(くすり)込役(ごめやく)は一般には火縄銃の弾込め役の意だが、本書では、もともと紀州藩お抱えの忍び衆であって、吉宗が江戸城に入ったときから、御庭番、紀州に残された者たちの二派に別れ、紀州に残された者の大半は、江戸に伴われなかったことを怨んだとされる。

 本シリーズはそもそも忍者の生きざまを伏線とした物語でもある。主人公の柘植長門守正寔は実在の人物で、1500石の旗本だが、柘植家は所詮は正式な武士とは言えぬ伊賀者いわゆる「忍」の家系であったと造形されている。シリーズの常連《霞》の六兵衛は伊賀随一の遣い手で代々柘植家に仕える上忍である。
 田沼の隠し金を私せんとする潮田内膳が柘植家の忍び・新八郎を言葉巧みに丸め込み、正寔を裏切るように仕向ける。正寔はまさか自分が田沼の隠し金の相続人に指名されていたとは夢にも思っていない。潮田内膳とその一味は掃討されたが、それですべてが終わったと正寔は思っていない。正寔には、六兵衛に厳しく育てられた新八郎が死を賭しても、なにか自分に伝えたかったことがあるのではないかと思えてならない。

 天明8年6月、先の老中、田沼意次 死す。齢70。前年の天明7年10月には意次に蟄居の命が下され、5万7千石すべてを召し上げられたうえでの閉門蟄居の状態に置かれていた。失意、無念の死であったにちがいない。
 あれほど目をかけていただいたのにと、正寔の心は激しく痛んだ、俺はとんでもない恩知らずだと……。

 物語はまだまだ終わらない。次巻へと続く。
「白川の清き流れに魚住まず、濁れる田沼いまは恋しき」と、定信が筆頭老中の座について、数ヶ月後には懐かしがられた。人の評価はまことに難しい。
 意次が正寔に語りかけた次の言葉で、作家が意次を単なる金権政治の権化、悪徳政治家とはみなしていないことは明白である。
佐渡(さど)では苦労したであろう。それに比べて、長崎(ながさき)はなにかと実入りが多いと聞く。せいぜい儲けるがよいぞ。いくらでも私腹を肥やしてもよいが、それ以上に、幕府に利益をもたらさねばならぬぞ」。

 意次を肯定的にとらえた作品としては、意次全盛時代を背景として展開させた池波正太郎の『剣客商売』がTVドラマ化されたこともあり一般にはなじみ深いであろう。意次の人物像に本格的に迫った歴史小説としては山本周五郎の『栄花物語』、平岩弓枝の『魚の棲む城』があるが、両書とも失脚後の意次を詳しく描いてはいない。藤水名子の本シリーズは先行するこれらの作品とは趣を異にする作品で、ことに最新巻は、「意次の隠し金」をキーワードに、主人公隠密奉行柘植正寔をめぐっての、幕閣の複雑で濃密な人間ドラマを巧みに繰り広げることにより、田沼の失脚後の落莫とした2年間を描きつくしている。
       (平成29年11月14日  雨宮由希夫 記)
 

書評『治部の礎』

書名『治部の礎』                   
著者 吉川永青
発売 講談社
発行年月日  2016年7月19日
定価  ¥1850E

治部の礎

治部の礎

 

 

『治部の礎』は浅井長政の家臣を父として生まれ、18歳で秀吉に仕え、秀吉の天下統一事業を支える側近中の側近に昇り詰め、関ヶ原の戦いで敗れ42歳で刑死するまでの石田三成の生涯を辿った歴史小説である。
 神君家康に弓引いたとして江戸期を通じて「佞臣」と貶められた三成の虚像はいびつなままに近代に引き継がれ、これまでの歴史小説においても三成の評価は必ずしも高くはない。千利休切腹、秀次の誅殺など秀吉の晩年に起こった暗い事件のほとんどは権力者に取り入った「茶坊主」三成の奸謀であるとした歴史小説もある。『誉れの赤』、『裏関ヶ原』など優れた<戦国もの>歴史小説をものしている気鋭の歴史小説作家の吉川(よしかわ)永(なが)青(はる)がいかなる三成像を描くのか、興味を持って本書を紐解いた。


 ただ一度の武功すら挙げることのなかった「三成の戰下手」の代名詞となった忍(おし)城(じょう)(埼玉市)の水攻めが語られる。天正18年(1590)春の秀吉の小田原征伐に当たっての忍城水攻めは、和田竜の『のぼうの城』(小学館、2007年刊)では、攻撃の大将の三成自身32歳が主君秀吉の備中高松城を水攻めした前代未聞の故智に倣って計画したものとされている。が、本書の作家は、忍城の水攻めは秀吉の下命によってやむなく行われたことで三成の意思ではなく、命じた秀吉に瑕を付けないことが何より大事と考えた三成があえて戰下手の汚名に甘んじたのだと物語っている。
 本書で重要な役回りを演じるのは島(しま)左近(さこん)と大谷吉(おおたによし)継(つぐ)のふたりである。
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とうたわれたほどの武将である島左近と三成は山崎の合戦を前にして、「洞ヶ峠」の大和郡山城主筒井順慶の陣で出会ったとしているところが興味深い。時に左近は順慶の家臣であり、三成は秀吉の命で順慶を訪ねるのであった。さらにのち、浪人して隠棲していた左近を三成が千利休の遺言に従って召し抱え肝胆相照らす主従となるというくだりも興趣溢れる。従前の歴史小説では「天下一の茶頭」千利休と小賢しい若手文治官僚の三成とは同じく秀吉のブレーンながら厳しく対峙するものとして描かれることが多かったが、本書では、まったく趣を異にしている。千利休石田三成の人間関係を探るだけでも、本書には一見の価値がある。


 大谷吉継関ヶ原の戰の帰趨を知りながらも、死生をともにすべく誓い合った盟友である。「人に対して横柄すぎる」と三成の欠点をついた忠告をする吉継と吉継にたしなめられても受け流す三成の阿吽の呼吸。吉継は長束正家佐竹義宣真田昌幸らと共に忍城攻めに参加した武将の一人であり、彼らが皆、関ヶ原では 西軍に与しているのも奇しき因縁というべきか。人望を集める華やぎがなかった三成の性格も関ヶ原敗戦の一因だとされるが、三成を真に理解する友はいたのである。


 歴史上の人物はその最期によって評価されてしまうきらいがあり、三成の場合は「関ヶ原の戦い」と共に語られるのもいたしかたない。
 三成が秀頼を擁して家康打倒の兵を挙げた関ヶ原の戦いは慶長5年(1600)9月15日のわずか一日で決着してしまったが、豊臣家の家臣であり、盟友であったものが敵味方となって戦った点に特色がある。関ヶ原には彼らの見果てぬ夢、欲得、恨み、嫉妬、不満、鬱積などが複雑に絡み合い激しく渦を巻いており、戦いを左右したのは表裏ままならぬ人間の業であった。
 関ヶ原における三成の敗戦の因を、太閤秀吉の義理の甥で元養子の小早川秀秋の「裏切り」に求める見方がある。1万5千の大軍を擁し松尾山に陣する小早川秀秋に謀叛の懸念があることは三成にとっては織り込み済みのことであったが、本書では、本来、秀頼や毛利輝元のために準備した松尾山が唐突に秀秋に占拠されたと知り、狼狽する三成が描かれている。陣地としての松尾山の戦略性を指摘した歴史小説は稀有である。
 三成の誤算は三成の意に反し、東軍の動きが敏速であったことにつきようが、そもそも、関ヶ原の戦の原因は秀吉家臣団には二つのグループがあり、グループ間でのヘゲモニー争いにあった。


 二つのグループとはいずれも秀吉を父と慕った秀吉子飼いの武将たちで構成されたグループで、「武断派と文治派」、「尾張閥と近江閥」、「北政所(きたのまんどころ)派と淀(よど)殿(どの)派」のように表されるが、本書では「槍働きと裏方」と表現される。「槍働き」は加藤清正福島正則に代表される野戦武将で、「裏方」は三成のような内治に携わる文治官僚である。両派の嫉視反目は秀吉在世時から存在し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)で、不和と憎悪は救いがたいものになっていた。特に本書では、秀吉の懐刀の三成が独裁者秀吉の眼を意識し、命に従って戦うと見せながら、戦争続行の意欲の強すぎる清正らを排除して、和平工作を図る姿が描かれる。「槍働き」の清正らに嫌われたことが三成にとって致命的な打撃となったのである。


 三成の初陣となった「賤ケ岳」から「関ヶ原」に収斂させていく作家の構想力は、人間描写の妙に及んでいて、息もつかせない。関ヶ原の戦いでの勝敗の帰趨を後世の人間たる読者は誰もが知っており、読者の眼は関ヶ原をめぐって展開された人間模様を作家がいかに描くかに向けられるのである。人間模様とは人間いかに生きるべきかの永遠の課題である。


 三成に関わり、数奇な運命の下で生きた二人の若者に作家の筆は及んでいる。
 一人は本能寺の変で討たれた信忠の嫡男・織田秀信。「信長の嫡孫・三法師」として秀吉の天下取りに利用されるも、三成を慕い、織田一族のほとんどが東軍に与した中で、西軍に与し、岐阜城主として戦うも敗れ、高野山に追放され5年後26歳の若さでこの世を去っている。もう一人は結城秀康。家康の次男、秀忠の庶兄である。家康に嫌われ、小牧・長久手の戦の講話後、秀吉の養子となり、関ヶ原の戦いでは、本流の戰場から外され、下野国小山に陣し、上杉景勝の西上を阻止する役目を負った悲運の徳川嫡流である。二人の若武者から「もう一つの関ヶ原」が浮かんでこよう。


 最終章で、逮捕された三成が大津の家康の陣に引き据えられ、家康と対面するシーンがある。家康は西軍の首謀者として三成を罪人として扱うが、三成は臆することなく家康に対峙し、家康の天下取りの野望を糾弾し、今後の豊臣家への存念を、さらにはどんな政権を造るのか問い糾すシーンはラストシーンながら、本書最大の読みどころである。
 ひるがえって、三成挙兵の狙いは何だったのか。ただ秀吉の恩顧を思い、義のためにだけに、ただ一人敢然として家康に立ち向かうべく決起したのではないことは明らかである。


 秀吉は「天下布武」を標榜した信長の後継を自任していたが、秀吉自身には明確なビジョンはなく、豊臣家がすべてを支配する体制をビジョンに描いていたのは三成である。三成としては、家康の天下取りの野望の下、自らが秀吉の下で作り上げた制度や掟が変えられていくのが我慢できなかったに違いない。石田三成は戦なき安定と繁栄の世、泰平の国造りの礎たらんとした信念の男であった、と作家は描く。『治部の礎』、書名の由来はここにある。


 なお、本書に引き続き、「関ヶ原」と人間模様をテーマとして著わされた『裏関ヶ原』(講談社、2016年12月刊)は今年度の中山義秀文学賞の最終候補作にノミネートされている。受賞を願いつつ、本書と共に併せ堪能したい。
                (平成29年10月19日  雨宮由希夫 記)

書評『有楽斎の戦』

書名『有楽斎の戦』                   
著者  天野純
発売 講談社
発行年月日  2017年8月22日
定価  ¥1600E

有楽斎の戦

有楽斎の戦

 

 

 本書は「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」という、戦国史に残る三大事件を時代背景に、それぞれ、織田有楽斎ともう一人の人物を主人公に配した6編の連作短編で構成された歴史小説である。有楽斎のみが三大事件のすべての現場に居合わせている。

 幼名は源五、長じて長益と名乗った織田有楽斎織田信秀の11男で、13歳も年下の覇王信長の弟である。なぜに有楽斎なのかの問いに、天野は「本書刊行記念エッセイ」(『現代小説』2017年9月号所収)で、「大ピンチをことこどく乗り切る強運。悪評をものともしない精神的タフさ。有名人の弟のくせに経歴に空白部分が多いのも、作家的にそそられる」と応じている。

 本書の巻頭を飾るは「本能寺の変源五郎の道」の章。
 主人公は「私」、源五郎長益の一人称である。数奇の世界に魅了された35歳の「私」が武人としての栄達は捨て、千利休を師と仰ぎ、茶の湯の道に生きようと、己の生に意義を見出すところからスタートしている。しかし、一年余の後の、天正10年(1582)2月、「私」は武田討伐の軍中にあった。戦は嫌いだが、信長の弟として生まれた以上、戦と無縁ではいられないらしい。有楽斎にとっての信長という存在は常に恐怖の対象としてあるが、今の「私」があるのはすべて兄のおかげであることも事実である、と作家は有楽斎の心性を造形している。持って生まれた宿命という他はないということであろう。

 さらに刮目すべきは、甲州征伐で「私」と轡を並べる人物として甥の源三郎信房(のぶふさ) (信長の5男、勝(かつ)長(なが)。幼名坊丸)を登場させていることである。勝長は本能寺の変に際して、兄信忠に殉じて討死した信長のもう一人の息子である。幼くして東美濃の岩村城主の遠山景任の養子となり、やがて人質として武田家におくりこまれ、武田氏の下で元服、勝長と称した。織田・武田の戦いを前にして勝頼より信長に送り返され信房と名乗り改め、更には青春のほとんどを過ごした思い出深い甲斐国に攻め込む。遂には、そのわずか4ヶ月後、本能寺で討死。数奇な運命のもとに生まれ、時代に翻弄されたまさに流転の生涯を送った人物である。

 諏訪の法華寺の本堂で、武田攻めの論功行賞が行われた際、信長が明智光秀を折檻するという名高いシーンがある。
 光秀の顔を蹴り上げる兄。その兄信長を「事実上の兄の家来であるが、あくまでも盟友である」家康が折檻を辞めるよう諫める。そこで信長は「天下を平定しても戦は続く」との言葉を発する。

 人物配置の妙。切り取りが絶妙である。ひとつかみの文章によって、歴史の場面が彷彿と浮かび上がってくるのである。明敏な読者は状況描写から織徳同盟の本質を、信長が口走った発言から、光秀謀反の遠因を見出すことであろう。
 信長が大陸出兵をいつごろから意図していたか諸説あるが、それはひとまず置くとして、武田氏を滅ぼすことにより、信長による天下統一がほぼ完成したと一息ついた光秀が、「信長が天下人の座にある限り、戦は果てることなく続くのか。このまま織田の陣営にあってもいつも最前線に立たされ、いずれは死なねばならぬ。つまりは信長に殺される」とこのとき覚悟したものと読み取れる。

 さて、本能寺の現場。天正10年(1582)6月の本能寺の変の際には、有楽斎は信長の嫡男信忠と共に二条御所に一時立て篭もるが、信忠は自刃、長益自身は城を脱出し、岐阜まで逃れたとされ、「逃げの有楽」の異名がある。巷説では本能寺の変の際に信忠に自害を進言したのは長益だとされるが、このとき、長益は信忠の遺志を託されたのではないかとの見方もできよう。
 本書では、ただ、「自害を決意した信忠がはじめて声をかけてきた。『「叔父上は、好きになされるがよい』」とある。ここでも、ひとつかみの文章によって、有楽斎の心性を奥深くとらえる手法が冴えわたる。

 兄信長は死んだ。もう、自分を縛るものは何もない。京を出よう。そして武士など捨て、信長の弟ではないただ一人の男として、茶の湯の道に生きよう。
 嗤われようと蔑まれようと己の道を進むのだ。生き京を出られたら、「私」は甲斐へ行くつもりだ。この手で命を絶った甥信房の遺髪を彼の地に埋めてやる。 それが私の、織田家の男としての最後の仕事になるだろう。「私」の生涯で戦場へ出ることはもうないであろう、と有楽斎の独白は続くが、二人の甥の死に立ち会って、「私」が命に代えて供養しようとしたのは、普段は武将として叔父としての自分など歯牙にもかけぬ信忠ではなく、薄幸の信房であったのである。

 本能寺の変後、有楽斎は秀吉に仕えた。武将としてより茶人として仕えて御伽衆に甘んじている。秀吉が没すると家康に接近し、慶長5年(1600)(54歳)、関ヶ原の戦いでは、家康の要望で駆り出され、東軍に属して手柄を立て、大和国3万石という過分の功賞を授かっている。関ヶ原の戦いのあとも、大坂城に在り豊臣家に出仕を続け、豊臣秀頼の母・淀君の叔父として豊臣家を補佐した。大坂冬の陣では大坂城に入り、城内の動静を探り、徳川方に内通する間諜の役を務めていた。それがための大和国3万石であった。淀殿・秀頼母子を思う叔父心には偽りはないであろうが、すべては茶番であった。家康の盟友であった信長の弟として別格の扱いを受けたが、秀吉の天下取りに利用されたように、天下人家康にも利用された。織田ブランドは大きく、本人もそれを十分意識して活用して生きのびる。数寄の世界に魅了された有楽斎は生きる為に足掻く。それが有楽斎の戦であった。

 3事件すべてに共通する主人公は有楽斎だが、各事件には有楽斎とは別にもう一人の人物を主人公として登場させた短編が添えられ、有楽斎の生きた戦場が別視点で描かれている。
本能寺の変」では、信長に招かれて本能寺の客殿に宿泊し、変事に遭遇するや、空海の筆跡を持ち帰った博多の豪商にして茶人の島井宗室。「関ヶ原の戦い」では、東西両軍の命運を握り、道化を演じることにより徳川の天下を決定的なものにしたが、徳川に謀殺された裏切り中納言小早川秀秋。「大坂の陣」では、真田幸村を討つなどの武功を挙げ、天下を夢見た”家康の孫”松平忠直、の三人である。複眼で3事件の真実に迫るとともに、有楽斎の戦の特異さを際立たせている。

  天野(あまの)純(すみ)希(き)は1979年愛知県生まれ。愛知大学文学部史学科卒業。2007年「桃山ビート・トライブ」で第20回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。13年『破天の剣』で第19回中山義秀文学賞を受賞。今年春5月には、信長によって人生を狂わされた7人の男を主役として書き、連作として繋ぐことによって、信長の「影」を逆照射し、信長とその時代を描き出すという従来の<信長もの>とは違った異色の歴史小説である『信長嫌い』(新潮社)を上梓したばかりである。


 過去の歴史はもはや変わりようがなく、私たちの知り尽くした物語が展開されつくしても、ひとの生きざま、死にざまを垣間見て何とも言えない気分を感じさせるのは作家の持つ天賦の力量、才なのである。歴史時代小説という文芸に力があるのはこのような雰囲気を醸し出すことができるからである。そういう当たり前の感慨を改めて確認した思いである。
 やはりこの作家の作品は見逃せない。

                 (平成29年9月21日  雨宮由希夫 記)

末國善己さん新刊

会員で以前歴時クラブ賞選考委員を務められておりました末國善己さん新刊です。

Amazonより転載:

文豪の独創的な表現が想像力をかきたてる!
10人の文豪が描く「永遠のエロス」

性愛を題材にした文学の歴史は古く、弾圧が厳しい時代をも乗り越え、現代に至っている。
本作は川端康成太宰治坂口安吾など、
近代文学の流れを作った10人の文豪によるエロティカル小説集。
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視覚を重んじる現代エロスとは異なり、五感を刺激する名作集だ!

 

 読者の皆様、よろしくお願い致します。

書評『白村江の戦い』

書   名 『白村江の戦い』             
著   者  三田誠広
発   売  河出書房新社
発行年月日  2017年7月30日
定   価  本体2100円(税別)

 

白村江の戦い

白村江の戦い

 

 

 白村江(はくすきのえ)の戦いとは韓国忠清南道の錦江の河口の白村江で、日本・百済(くだら)VS唐・新羅(しらぎ)が朝鮮半島の覇権をかけて、天智2年(663)8月27日・28日の両日に戦われた決戦である。日本は唐・新羅連合軍の前に大敗を喫した。
 本書は白村江の戦いは何のための戦争で、その結果、日本に何をもたらしたかをテーマにしつつ、副題に「天智天皇の野望」とあるように、天智天皇(中大兄(なかのおおえ)皇子)の人間像に迫った歴史小説である。
 当時の日本・倭国冊封を迫る唐に対して、唐に隷属するのか、戦って独立を守るのかの選択の末、百済を救援すべく、本格的な軍事介入に邁進している。
 何のための戦争かの問いに、本書では、皇太子の立場にある中大兄に、「負けるために戦うのだ」と言わしめている。国の統一を目指す中大兄はこの度の戦は国を統一する千載一遇の好機ととらえ、あえて戦乱を求めたとする。阿倍比羅夫(あべのひらふ)は同時代の蝦夷征伐に武功のあった武人だが、「後将軍」として出陣する際に、「この戦、勝つ必要ない。最後尾で、最前線に出ず戦況を見守ればよい」と中大兄と訓示され、「負けることを承知で戦い、最初から逃げるために後陣に控える戦いなど聞いたことがない」と気色ばむシーンが象徴的である。

 物語のスタートは中大兄と中臣鎌子(のちの藤原鎌足)の出会いからはじまる。古代国家を画期的に変貌させた二人の邂逅シーンを先ず作家は配置している。
 登場人物のキャラクターには幅を持たせたと作家が自負するように、人物は異彩を放ち、時に嘆息、時に唖然とするほどに独創的なアイデアに満ちている。
 大化の改新白村江の戦い壬申の乱という“日本誕生”三大事件に関わった人物である中大兄皇子皇位継承の局面に何度も立ちながら、なぜ即位しなかったかのは、日本古代史上最大の謎であるが、これにも作家は一つの回答を与えている。

 中大兄は敵対者の存在を許さず、異母兄古人(ふるひと)大兄(おおえ)皇子、従弟有馬(ありま)皇子、自分の妃の父である蘇我倉山田石川麻呂などを、政治のためなら、平気で粛清することにより、皇極、孝徳、斉明朝の三代にわたり政務を独裁した猜疑深く冷徹な策謀家、非情の人として描かれるのが通例であるが、作家が描く中大兄は倭国の統一を果たして思い残すことはないと己の生き方を回顧する為政者である。 
 中臣鎌子(藤原鎌足)はいうまでもなく、日本の古代から近世に至るまで日本政治史上に勢力を保持した名族・藤原氏の祖となった人物である。「日本書紀」には「体も大きくたくましかった」とあるが、本書では、「背丈は少年と見紛う侏儒(ひきひと)」で、中大兄に「侏儒(ひきひと)の夢は自分の夢でもあった」と言わしめる。

 皇極4年(645)の6月12日のクーデターで、「日本書紀」はこのとき、鎌足の命を受けた俳優(わざおぎ)が蘇我入鹿(そがのいるか)の剣を奪ったと伝えるが、本書では鎌足その人が俳優で、その出自は中臣氏といった古来の地主的な豪族の出ではなく、帰化人系であるとする。鎌足が俳優であり帰化人系であるとの造形は刺激的である。
 大海人(おおあま)皇子と兄の中大兄皇子はともに舒明帝の皇子で、皇極(斉明)を母とする同母の兄弟である、とするのが通説であるが、本書では、「大海人皇子は世間では弟とされているが、6歳年長の異父兄で、大海人本人は自分が兄と思っている。独裁者であるはずの中大兄が唯一苦手としていた」とする。
 大海人の妃で後の持統天皇である鵜野讃(うののさら)良(ら)皇女の人物造形も見逃せない。中大兄を父に、蘇我倉山田石川麻呂の娘越智媛(おちのいらつめ)を母としてうまれた彼女は母方の祖父の一族を父中大兄により滅ぼされたために、父を怨む。この娘が自分を滅ぼすことになるのかと中大兄がおぞけるシーン、「あの男(=天智)を殺しなさい」と夫の大海人皇子に告げるシーンは読みどころである。古代史最大の戦闘たる壬申の乱への予兆が天智存命中にすでに醸成されているのだから。 

 鎌足や大海人の存在の同等あるいはそれ以上に中大兄の生涯に欠かせない女性がいる。
 額田(ぬかだの)女王(おおきみ)は若い時、中大兄皇子大海人皇子の兄弟に愛された美貌の宮廷歌人としてあまりにも名高いが、実在の彼女は謎の女、生没年不詳、鏡王の女という以外不明。生没年不詳は日本の古代の女性の共通のもので額田に限ったことではないが、額田の宮廷における公的立場さえ明らかでない。本書では、加羅国の王族の生まれで、推古帝から皇極帝に託された神宿る巫女とされる。
 また、額田女王鎌足はともに加羅の出身で、同じ船で渡来した幼馴染みであるとする。鎌足には、不比(ひふ)等(と)のほかに、定恵(じょうえ)という長男があったが、実父は鎌足ではなく、孝徳帝であるという皇胤説がある。本書では、これに加え、中大兄の子を孕んだ額田を譲り受けた鎌足はその子を我が子として育てた。つまり不比等は中大兄の落胤としている。とすれば、名族藤原氏は天智帝系の子孫ということになるではないか。
 間人(はしひと)皇女(のひめみこ)は中大兄の「同母(いろ)妹(も)」(実の妹)だが、間人(はしひと)にとっての「わが背子」は中大兄であったという。古代人特有の近親結婚のありようを理解するとしても、同母兄妹の近親相姦は古代においても人倫(ひとのみち)に外れた行為であった。孝徳帝即位に際して大妃(おおきさき)(皇后)として中大兄は間人(はしひと)を立てるが、本書では、間人(はしひと)は後宮に入らず、同母の兄と公然と夫婦のように同居しており、やがて中大兄の策略で謀殺される孝徳帝の長男・有間皇子が、「天道に叛いて、畜生道に堕ちる」と二人を公然と面罵するシーンがある。

 皇族の女には霊力が宿り、未来が見える、とされていた。軍事に支えられた権力ではなく、巫女が受ける神託によって国を統べる。そうでなければ国は収まらなかった。中大兄が大海人の妃で母の女帝の側近を努めている額田女王を我がものとしたのは額田が神宿る巫女であったからであり、中大兄が終生、間人を手放さなかったのは、彼女が未来を予言する巫女として霊能を発揮していたからだと物語られるのには説得力がある。祭祀を重要視した古代社会において、古代の人々が神を信じ神霊に祟られて生きていた。7世紀とはそのような歴史空間であったことが理解できる。

 同じく白村江の戦を題材にした歴史小説の最近の成果に、荒山徹の『白村江』(PHP研究所 2017年1月刊)がある。その後半部が人質として倭国に派遣され、その生涯の大半を異郷である倭国で過ごし、故国百済が滅亡した後に、百済へ帰国し再興をはかった余豊璋(よほうしょう)があたかも主人公の如く活写されているように、荒山徹の『白村江』が朝鮮半島の国情の動きを丹念かつドラマチックに追い、東アジアが激動の時代だった関係諸国の国内外情勢があたかも眼前の情景のように活写しているのに対し、三田誠広の本作は倭国王家(皇室)の内紛、皇位継承をめぐる骨肉の争いなど複雑な人間関係を内に蔵する中に、白村江を描いている。両書からともに有為転変の人間劇の愛憎悲哀、登場人物の息遣いさえ聞こえてくることに読者は息を呑むことになろう。両書を読み比べ、互いの書かざる史実を補うことは歴史小説のひとつの読み方であろう。
      (平成29年8月11日  雨宮由希夫 記)

沖田正午さん新刊

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生きがい 戯作者南風 余命つづり (角川文庫)

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書評『義経号、北溟を疾る』

書名『義経号、北溟を疾る』             
著者 辻 真先
発売 徳間書店
発行年月日  2017年6月15日
定価  本体800円+税

 

義経号、北溟を疾る (徳間文庫)

義経号、北溟を疾る (徳間文庫)

 

 

 開拓使時代に、明治天皇の北海道巡幸があった。この行幸は、明治5年(1872)に始まった「北海道経営10カ年計画」が明治15年(1882)で修了しようとしていたおり、その前に北海道開拓の状況を是非ご覧に入れたいという北海道大開拓使(開拓長官)黒田(くろだ)清隆(きよたか)の要請が実現し、北海道はじめてのお召し列車が走ったものであるが、本書はこの史実を踏まえた、謎解きあり、活劇ありの書下し長篇歴史冒険ミステリーである。

 明治14年(1881)、舞台は札幌。その年7月には時計塔が改築され、取り付けられた自鳴鐘が農学校構内や市中の人々に”標準時”を知らせるようになったばかりである。開拓使時代末期のビックニュースといえば、幌内鉄道の開通である。北海道初の鉄道である幌内鉄道は手宮(てみや)~幌内間90キロの官営鉄道で、前年11月28日、手宮~札幌間が開業。札幌の軌条は北六条通りの路上に敷かれていて、汽車はまだ粗末な石置き屋根の連なりであった札幌の市街のど真ん中を走った。
 物語は、明治14年(1881)のある日、かつての新撰組三番隊長・斎藤一(さいとうはじめ)、今は警視庁に奉職する藤田五郎が警視廳大警視川路利(とし)良(よし)より北海道大開拓使黒田清隆にまつわるある探索を依頼されるところから、はじまる。藤田は、清水の次郎長の子分で侠客の法(ほう)印大五郎(いんだいごろう)とともに、札幌に向かう。

 明治天皇が8月30日、アメリカから輸入された蒸気機関車義経号が引くお召し列車に乗る予定だが、黒田清隆肝煎りのこの一大イベントを妨害しようとする者がいるという情報の真実を探ることが、藤田五郎と法印大五郎の渡道の目的である。
 二人が目指したのは札幌西隣琴似(ことに)原野の屯田兵村。屯田兵制は明治7年(1874)、北方防備、開墾開拓と士族の救済を目的として設けられたもので、屯田兵の多くはかつての東北諸藩の武士たちであったが、旧幕時代、粋で鳴らした八丁堀同心も食えなくなった窮迫士族として屯田兵を志願し、ひとつの屯田兵村を形成していた。その屯田兵村で、元同心千代木市之進の愛妻信(のぶ)恵(え)が、黒田に犯された末、首吊り死体として発見されるという凄惨な事件が発生した。酒乱で好色の黒田は、明治11年(1878)3月28日夜、泥酔して東京麻布の自邸に帰宅した際、妻の清(せい)を切り殺す(蹴り殺すとも)惨劇を引き起こしているが、元八丁堀同心の妻の殺害はこの史実たるスキャンダルを踏まえて造形されたものである。それはともかく、お召し列車運行までの限られた時間内に、一介の剣士と侠客は、北海道の専制君主を相手に、どんな方法を取れば、真相を確かめることができるのか、読者の興味はここに集約される。
 誰が無実の黒田を陥れようとし、列車妨害を画策しているのか、二人は先ずそれを探るのが、やがて、元八丁堀同心の妻の密室殺人事件はミステリーでいうところの「雪の密室」トリックであること、また、黒田に恨みを抱く同心たちの狙いはお召列車を破壊することではなく、8月30日に予定された札幌着を決定的に遅れさせ、日本の元首たる明治天皇が欧米列強の外交官を席巻する目的の豊平館での晩餐会を台無しにすることで黒田に赤恥をかかせ、その政治生命を絶つ事にあることが判明してくる。

 主役、脇役を問わず、実在か架空かを問わず、登場人物の配置が絶妙である。 <明治もの>時代小説ではおなじみのキャラクターになった感のある斎藤一こと藤田五郎の存在感はこの物語の主役であるにふさわしい。もと新撰組探索方にして三番隊組長。警視庁抜刀隊として世に名高い田原坂の戦いを戦った。西南戦争は藤田にとって“朝敵”の汚名をそそぎ、会津戦争の借りを返せる千載一遇の好機だった。会津落城後、榎本武揚(えのもとたけあき)の艦船で蝦夷地に渡った土方(ひじかた)歳(とし)三(ぞう)と違って、斎藤が会津にとどまり、斗(と)南(なみ)では松の皮さえかじって生き延びたのは、斎藤がすでに会津藩に仕官し会津藩の諜報の一翼を担っていたからであるとする有力な説があるが、本書ではまさに間諜の玄人としての活躍が見どころとなっている。
 黒田清隆西郷隆盛大久保利通亡き後の薩摩閥を背負う人物だが、1881年開拓使官有物払い下げ問題を大隈重信により非難され開拓長官を辞任する。本書では豪快で度量の大きな好漢で名実ともに北海道の専制君主として描かれている。
 藤田の仇役でいわば容疑者となる四人の元八丁堀同心、義経号を動かす洋行帰りの御室兄弟、それにヒロイン二人、黒田に殺害されたと目される元同心の妻の妹・春乃と、土方歳三ゆかりのアイヌの美少女・メホロ。彼彼女らはいずれも架空の人物ながら、この物語のなかで実在の如く息づいている。

 密室殺人の真相が明かされるシーンもさることながら、本作のクライマックスというべきお召し列車を巡る攻防戦の最終局面で、二人の戦士、町方同心捕物出役時の装束に身を包んだ元八丁堀同心の市之進と新撰組最強の剣客・藤田が、明治の「文明開化」という新しい時代の象徴とも言える鉄道を挟んで対峙する構図は圧巻である。ふたりの戦士がかつては共に幕臣であったことに思いを致すとき、読者はそこに歴史の非情、皮肉を感じるであろう。北辺の地ゆえにこそ幕末明治史の縮図がみてとれる。巧みな物語構想力というべきである。

 作家の辻真先は1932年生まれ、名古屋市出身。日本のアニメ・特撮脚本家、推理冒険作家、漫画原作者、旅行評論家。1981年「アリスの国の殺人」で第35回日本推理作家協会賞受賞。2009年本格ミステリー大賞受賞。TV創生期から数々の名作を送り出してきた脚本家であるとともに、ミステリーを中心に活躍してきた小説家でもある。
      (平成29年7月22日 雨宮由希夫 記)