歴史時代作家クラブ公式ブログ

現在活躍中の歴史時代作家が多数所属する文学団体です。時代文庫活性化を目指し、各社から出ている時代小説文庫等の紹介もします。初めにこちらをお読みください。→http://rekishijidaisakkaclub.hatenablog.com/entry/2014/08/01/105546

書評『幕末 暗殺!』

書名『幕末暗殺!』
著者 谷津矢車/早見 俊/新美 健/鈴木英治/誉田龍一/秋山香乃/神家正成
発売 中央公論新社
定価  本体1600円(税別)

 

幕末 暗殺! (単行本)

幕末 暗殺! (単行本)

 

 
 操觚(そうこ)の会に集う7人の作家による書き下ろし短編競作である。日本史上稀にみる狂瀾怒濤の時期である幕末の、桜田門外の変から孝明天皇毒殺まで血塗られた暗殺事件の数々に、操觚の会に集う7人のサムライならぬ7人の歴史時代小説作家がいかに迫るのか、作中に散見する各人各様の透徹した歴史観をもたのしみながら、ひもときたい。なお、操觚の会とは新しい歴史小説を摸索、構築しようと各種イベントや講演会を定期的に行うなど活動している作家集団(会員は17名)である。

 

 巻頭を飾るのは、谷津矢車の「竹とんぼの群青」。桜田門外の変を扱っている。
 安政7年(1860)3月3日の白昼の要人襲撃事件は幕末日本に大きな転機をもたらし、時代の流れを倒幕へと傾ける引き金となった。井伊直弼暗殺を扱った作品としては水戸藩郡奉行与力で大老襲撃現場の指揮者である関鉄之(せきてつの)介(すけ)を主人公とした吉村昭の大作『桜田門外の変』があるが、気鋭の作家は襲撃合図のピストルを発射したとされる水戸藩士黒澤忠三郎の視点より事件を描いている。
 忠三郎は関鉄之介より、西洋式鉄砲を入手して、井伊掃部を斬る義挙に参加してほしいと頼まれる。直訴人を装い、直訴、直訴と叫びつつ、駕籠に向かって走り寄る忠三郎の脳裏に、「お前たちの尊攘は間違っている」と叫ぶ友の顔が浮かぶ。だが、忠三郎は走り続ける。「もう我らは止まれない」と。

 司馬遼太郎は「暗殺は否定すべきであり、暗殺者という者が歴史に寄与することなどないが、ただ、桜田門外ノ変だけは、歴史を躍進させたという点で、例外で、桜田門外の暗殺者群には、昂揚した詩精神がある」と語っている。
 天空に舞い上がる「竹とんぼ」はまさに大きな歴史の渦に否応なしに巻き込まれていく青年たちを表しているのだろうか。彼らに「昂揚した詩精神」があったとみるのはどうか。私はそれは錯覚だと思いたい。

 

 早見 俊の「刺客 伊藤博文」は文久2年(1862)12月21日、塙忠(ただ)宝(とみ)を暗殺(翌22日死去)した伊藤俊輔(博文)を主人公とした作品。暗殺を使嗾した高杉晋作と伊藤の物語の中の関係描写が実に巧みである。
 維新前夜、いっぱしの尊王攘夷の志士気取りであった百姓上がりの伊藤は長州藩でのし上がりたいとの野望を秘めている。伊藤の見る高杉は「餓鬼大将がそのまま大きくなったような男」にすぎないが、高杉に嫌われてはのしあがることはできない。俊輔にとって高名な国学者の塙忠宝はのし上がるための獲物にすぎなかった。
 暗殺者はいつの時代でも歴史の渦の中で一粒の泡となって浮かび瞬く間に消えていく運命にあるが、伊藤は例外で、維新後、総理大臣となり公爵まで授けられる。一方、幕末最大の風雲児・高杉晋作は明治の世を見ることなく逝去している。
 明治42年(1909)10月26日、伊藤は哈爾浜駅で暗殺される。初代韓国統監伊藤博文の最期の言葉は「馬鹿な奴だ」。塙忠宝が死ぬ間際に遺した叫びと同じだった。

 

 新美健の「嘆きの士道」は文久3年(1863)4月13日、清河八郎を暗殺した浪士取締出役の佐々木(ささき)只(ただ)三郎(さぶろう)を主人公とした作品。
 佐々木只三郎の人物造形もさることながら、山岡鉄舟高橋泥舟ら歴とした幕臣が清河に傾倒してしまう、清河の魔力はどこにあるのか、と作家は問うているところが歴史の核心をついている。「幕末の三舟」とか江戸無血開城に力を尽くした異色の人物として喧伝されている山岡らの虚像が等身大の人物として表現されている。
 八郎の評価についても、「討幕の魁となった稀代の策謀家」で通っている清河の本性を「尊大不遜な大ボラふき。死を賭して、国事に邁進する殊勝さは見あたらない。所詮は偽い物にすぎない」。斬られて当然の不逞の輩清河八郎の最期を描写して、「清川は――明らかに斬られたがっていたのだ。〈かたじけない〉そうつぶやいたのを只三郎は聞いていた」とする。切れ味の鋭さを見せる秀作である。

 鈴木英治の『血腥(ちなまぐさ)き風』は、元治元年(1864)7月11日、京都三条木屋町佐久間象山を暗殺した肥後藩士河上彦(かわかみげん)斎(さい)を描く。人斬りの異名で有名な彦斎は幕末を象徴する典型的な暗殺者=人斬りである。この作品では新選組副長土方歳三の造形が秀逸。京の町で歳三と遭遇した彦斎は「この男、どこか俺と似ている」と直感。土方が象山の遺児・佐久間恪二郎を伴い、仇討ちの助っ人として、彦斎と対峙するシーンが印象的である。彦斎は「この先、二人とも長生きできないのはわかっている。ここでやり合わずとも、互いの死はすでに間近に迫っているのではないか」と剣をおさめてしまうのだ。土方は明治2年5月、箱館五稜郭で壮烈な戦死を遂げるが、彦斎は維新後も攘夷を強固に主張し続け、藩、政府より危険視され、突然逮捕され何の尋問もなく、明治4年12月4日、斬首されている。戦死、斬首と形こそ違うが、新しい世に生きる場がなかった二人の漢(おとこ)の運命が呼応している。

 

 誉田龍一の「天が遣わせし男」は慶応3年(1867)11月15日夜、坂本龍馬を暗殺した京都見廻組の桂早之(かつらはやの)助(すけ)が主人公。京都所司代同心の家に生まれた早之助は京都見廻組与頭佐々木只三郎の部下となり、四条河原町の近江屋で暗殺剣を振るう。
 この事件は謎多い事件で、薩摩陰謀説もある。龍馬は薩長連合を斡旋した倒幕運動最大の功労者だが、大政奉還後のこの時期、武力衝突の非を説き無血革命を目指す竜馬は、断固武力討伐すべしとする西郷にとってはもはや目障りな邪魔者でしかなく、西郷の指令によって暗殺されたとするものである。暗殺の下手人は見廻組であることは確かだが、黒幕がいたはずである。アジトが簡単に知れるはずはないからである。本作では「佐々木がどういう伝手で龍馬の居場所を知ったのかは分からない」としている。

 

 秋山香乃の「裏切り者」は新選組隊士斎藤(さいとう)一(はじめ)と元新選組隊士藤堂(とうどう)平(へい)助(すけ)の友情を通して、龍馬暗殺の三日後の慶応3年(1867)11月18日の「油小路の変」を描いたもの。「油小路の変」とは新選組土方歳三らは御陵衛士を拝命して新選組と袂を分かった伊東甲子太郎を暗殺した後、油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに新選組隊士を伏せ、遺体を引き取りにきた藤堂平助御陵衛士の伊東一派をまとめて粛清しようとした事件である。
 新選組が間諜として御陵衛士に潜り込ませていた斎藤一賀陽宮(かやのみや)(中川宮とも。朝彦親王)の関係描写が出色。孝明天皇は毒殺されたのではないかと疑う賀陽宮斎藤一と共に、真相究明のために孝明天皇の墓を暴くというストーリー展開の絶妙さにはうなされる。

 

 神家正成の「明治の石」は明治維新史上最大の疑点のひとつである孝明天皇毒殺の謎に迫ったもの。慶応2年(1866)12月25日、突然急死した孝明天皇の死は病没説と毒殺説がある。なぜ毒殺されねばならなかったかの歴史的背景を考えた場合、公武合体論の強力な支持者で大の佐幕派であった孝明天皇が生きていたら、討幕の密勅はおそらく下らなかったであろうことは明々白々である。暗殺の黒幕として最有力容疑者は岩倉具視だが、討幕派の意向をうけた人物が毒殺に関与したのではないか。黒幕は証拠を完璧に隠滅したにちがいない。私自身は毒殺説に与したい。
 本作では、「紺色のくたびれた官軍の服を着た若い男」が、岩倉具視木戸孝允アーネスト・サトウ勝海舟西郷隆盛大久保利通らをおとない、先帝崩御の真相を問いただす。ミステリー的な謎解きとともに、「若い男」の正体ははたして誰かを楽しみながら、読まれたい。

 

 幕末は意味深い。暗殺に限っても、船山馨『幕末の暗殺者』、司馬遼太郎『幕末』、海音寺潮五郎『幕末動乱の男たち』などの名作があるが、書き尽くされた感など微塵もない。新たなイフがもう一つの可能性を呼ぶ。歴史は一本道ではないのだ。幕末維新は私たち現代人にとって単なる歴史の一コマなどではなく、身近な先祖の血肉の結晶なのだと思い知らされた。
                (平成29年2月6日 雨宮由希夫 記)

書評『関八州御用狩り』

書名『関八州御用狩り』
著者 幡 大介
発売 光文社
発行年月日  2017年12月20日 
定価  ¥700E

 

関八州御用狩り (光文社時代小説文庫)

関八州御用狩り (光文社時代小説文庫)

 

 
 浅間山の大噴火、天明の大飢饉と続いた天災。維新まで80年を切った頃の関八州が舞台。
「上州一帯の農家では、女達が養蚕で年貢を納めるのだ。暇な男たちは何をしているのかといえば、昼日中から酒を飲んで、博打を打っている。遊ぶ金は女たちがいくらでも稼いでくれる。そういう土地柄なので、博徒の親分が大きな勢力を誇示している。江戸を追われた無宿人や凶状持ちが、庇護を求めて上州一円を流れ歩いていた。

 先ずは、いつもながらの幡(ばん)節(ふし)に魅せられ乗せられて、物語りの世界に引き込まれる。さながら、在りし日の関東平野の光景が眼前に広がってくるようだ。
 主人公は白光(しらみつ)新三郎(しんざぶろう)、24歳。直参旗本三百石、白光家の三男坊。片山伯耆(かたやまほうき)流、居合の剣の達人。剣の腕を活かし「追い首」という賞金稼ぎに身をやつしている。戦国時代、勝敗が決まり、敗れて逃げていく敵の首を取ることを「追い首」といったが、ここでいう「追い首」江戸町奉行の追捕が届かぬ場所、関八州へ逃げ込んだ悪党どもを捕まえて江戸に送り届ける裏稼業のことである。晴らせぬ恨みを金で貰って晴らす「必殺仕事人」のような暗さはないが、裏の世界に身を置く闇の稼業であることには変わりない。
 白光家の家禄は三百石だが、家計は決して楽ではない。家の付属物にすぎない弟新三郎は一家の当主たる長兄忠太郎31歳に逆らえず、長兄の出世に協力する。次男以下は平身低頭して生きなければならないのが江戸時代の社会なのだと作家はいうが、賞金稼ぎを汚らしい仕事だと兄嫁登代は蔑むばかりか、新三郎が命を張って稼いだ金をすべて巻き上げてしまう。新三郎がいかに無欲恬淡な男とはいえ、部屋住みの悲哀を噛み締めつつ生きる姿はあまりに哀れすぎる。

 勘定奉行所の役人の原口茂十郎が暗殺された。息子一人の跡継ぎ原口善八郎に敵討ちの命が下る。その息子に雇われるのが「追い首」新三郎たちである。
 新三郎は、本名を隠し無愛想で魁偉の浪人大黒(おおぐろ)主(もん)水(ど)、「追い首」の元締めに仕える「走り衆」の利(り)吉(きち)の、親しいというほどの間柄ではない仲間と手を組んで関八州を駆け巡る。
 茂十郎を殺したのはヤクザ者・洲崎ノ千(せん)次郎(じろう)。千次郎は下総(しもふさ)古河(こが)に潜伏。古河は譜代大名土井氏八万石の城下町。宇都宮へ至る日光街道の宿駅であり、利根川渡良瀬川の合流地でもある。関八州の陸運・水運の要である。
 古河で千次郎を匿うのは田丸屋幸左衛門。古河で幅を利かせる河岸問屋の顔役で、河川流通を牛耳っている。

 勘定奉行所の役人が惨殺された。これは幕府の体面にかかわる大事件で、本来なら、関八州取締出役や火付盗賊改方が総力を挙げて科人を追うはずであるが、千次郎は追捕を振り切って、江戸の外の古河でのうのうと暮らしている。
勘定奉行所の役人を殺した科人が、老中の領国(古河)にいるのに手が出せない。公儀の役人を派遣すると波風が立つので、裏稼業の追い首を雇って送り付ける。こんな政権があるのだろうか」と、ここでも幡節がうなる。
 やがて、新三郎は、千次郎は田丸屋に依頼されて茂十郎を殺したこと、原口善八郎には出生の秘密があったことを知り、ことは単なる仇討ちではなく、意外な方向に進んでいくことを読者は覚悟しなければならない。「めしあ」「お救い様」とされた善八郎はいつしかキリシタン一揆の首謀者に祭り上げられていき、また、田丸屋幸左衛門の正体が明らかにされていく。なんと、田丸屋の先祖は宇喜多(うきた)家中の武士で、家康の命令で河川改修に従事させられた……。

 徳川(とくがわ)家康(いえやす)は江戸開府とともに利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変えようとした。かつて江戸湾に流れ込んでいた利根川の流れを銚子方面に瀬替えさせたことに象徴される、この河川の付け替え事業は世に「利根川の東遷、荒川の西遷」と称されている。
 この物語では、関八州の河川の瀬替え工事に従事し、天領の開墾を担ったのは関ヶ原の戦いと大坂の陣の敗戦で浪人となったキリシタン武士であるとする。
 隠れキリシタンの存在。北関東一円にキリシタン浪人をルーツとする農民たちが実在したことは史実であるらしい。「群馬は北関東で一番隠れキリシタンが多いところ」(田中澄江『群馬の隠れキリシタン上毛新聞社 1992刊)との指摘もある。

 天明3年(1783)の浅間山噴火は利根川の河床上昇は水害激化の要因となり、3年後の天明6年(1786)7月の江戸開府以来の大洪水だったという「天明の大洪水」を引き起こした。被害は利根川流域全体に及んだ。
 この物語は、利根川天明の大洪水の史実をも踏まえている。浅間山の噴火と天明の飢饉と洪水によって荒廃した人心こそが“事件”の根底にあることを明らかにしているのである。巧みな構想というべきである。
 何としてもキリシタン一揆を止めなければならないとする原口善八郎に対し、田丸屋は、「もはや失うものなど何もない」と突っぱね、更に語る。

「徳川は、江戸を水害から救うために、川の流れを東に返させた。その工事を担わせるため、我らキリシタンを西国から移り住ませて酷使したのです」
「我らは元々、歴とした武士!関ヶ原の戦いに敗れて浪人となり、徳川のキリシタン弾圧によって信仰まで奪われた。さらには関八州の工事に駆り出され、牛馬のように働かされたのです」
「我々を弾圧し続けた、にっくき徳川にすがって生きるなど……。それは生きながら地獄の業火にやかれるのと同じです」
 この世から根絶されたはずのキリシタンがわらわらと湧いてきて、奇妙な祈りを捧げているのを目撃して、「これが本当に日本国の光景か。否、これは悪夢に相違ない」と唖然とする新三郎。自らの出生の秘密の真実を伝えて誤解を解き、隠れキリシタンを正気に戻さねばならぬとする善八郎。手に汗握るその後の展開はこれから読まれる読者ために触れずにおく。

 かつて作家は、「江戸時代を通じて幕府は関東平野の巨大湿原を田畑に改良することに人力を費やしてきた」(『大富豪同心 闇奉行』双葉社 2017年7月刊)と述べたことがあったが、本書でも、「御用狩り」「追い首稼業」のストーリーの本筋とは一見無縁そうだが、江戸時代の天明期とはいかなる時代であったかをさらりと読み取らせるくだりがある。縦割り行政の弊害で凶悪犯の逮捕すらままならないこと、維新まで80年の政権の実態がそうであったことなど。それこそ、幡大介の江戸時代史観に基づく描写、したたかな構想力というべきか、これがまた絶妙なのである。
 痛快無比、軽快な魅力が堪能できるだけではない。書下ろし時代小説花盛りの今、幡大介のそれは奥深さが一味も二味も違うと改めて指摘したい。
 なお、本書は『風聲 関八州御用狩り』(ベスト時代文庫 2010年9月刊)を改題、加筆修正したものである。
                 (平成30年1月15日 雨宮由希夫 記)

書評『葵の残葉』奥山景布子

書名『葵の残葉』
著者 奥山景布子
発売 文藝春秋
発行日 2017年12月15日
定価  本体1800円(税別)

 

葵の残葉

葵の残葉

 

 

 明治維新に引き裂かれた悲運の高須(たかす)四兄弟。尾張徳川家の分家である美濃(みの)高須(たかす)松平家の当主松平義(よし)建(たつ)を父とする四兄弟――次男慶(よし)勝(かつ)(尾張徳川家十四代当主)、五男茂(もち)栄(はる)(一橋徳川家第十代当主)、六男容(かた)保(もり)(会津松平家第九代当主)、八男定敬(さだあき)(桑名久松松平家第四代当主)――は激動の幕末維新において国政を左右する枢要な地位に置かれていた。

 本書は条約勅許、将軍継嗣問題、大政奉還王政復古の大号令鳥羽伏見の戦い、東北戊辰戦争と奔流の如く動いた幕末維新史を「葵の残葉」たる最後の徳川の殿様・高須四兄弟から見た歴史小説である。
 城山三郎に、御三家筆頭尾張徳川家の総帥たる慶勝を主人公とした歴史小説『冬の派閥』(昭和57年1月刊 新潮社)がある。
 幕末の尾張藩には尊王攘夷を唱える下級藩士を主体とした金鉄組と親藩大名の本分を唱える佐幕派のふいご党の両派閥があり藩政を奪いあっていた。城山は、慶勝が金鉄組に担ぎ出される形で藩主となったことから書き起こし、維新前夜、14名の藩士を「朝命」の名のもと斬首した青松葉事件の悲劇、明治新政府下の尾張藩士の北海道移住など尾張藩の苦難の歴史をつづりつつ、転換期の指導者のあり方を問うている。
 奥山(おくやま)景布子(きょうこ)は果たして、慶勝と尾張藩をどう描くのか。興味と期待を持って『葵の残葉』をひもといた。

 先ず、四兄弟が揃って一堂に会した「一枚の写真」が目を引く(本書巻末に掲載されている)。明治11年(1878)9月3日、銀座の写真館で撮影されたものである。四人にとって最初で最後の集合写真であるこの写真は慶勝の呼びかけで四兄弟が参集して撮られ、撮影後は本所相吉町の慶勝邸で会食されたことがわかっている。四兄弟は申し合わせたように正装である。一見、和やかそうな表情だがその視線は各自各様である。美濃高須の松平家から、それぞれ、若くして諸家に養子に入った彼らは年齢差もあり、兄弟といっても四人うち揃って親しく兄弟らしい語らいをすることもなかったに違いない。四兄弟がその時、何を思い何を語ろうとしたかは当人以外、誰も分からない。作家奥山は物語のスタートとラストエンドにこの「一葉の写真」を配して、互いに、時には頼りに思い、時には恨み激しく憤ったこともあろう四兄弟の幕末明治に読者を誘う。
 会津藩松平容保京都守護職として、桑名藩松平定敬京都所司代として、尊攘勢力と戦い、幕末の京都の治安を守った人物であり、いち早く幕府を見限り新政府側についた兄慶勝は戊辰戦争では賊軍となった容保、定敬の二弟を討伐する役割を負わされる。
「最後の将軍」徳川慶喜の造形も秀抜である。慶勝の母は水戸の徳川斉昭の妹で、叔父斉昭の子慶喜は慶勝にとって13歳年下の従弟にあたる。気味が悪いほど「自分と瓜二つ」の慶喜を幼少時から知っている慶勝は、何かと面倒な性格の持主の慶喜という人物の本当に困ったところは押さえているものの慶喜の心底にあるものが何であるかは相変わらずわからない。かくて、慶勝らとは対照的な策略家慶喜に四兄弟は翻弄されしばしば窮地に立たされる。変節が激しく、いともあっさりと前言を翻し、本心を明かしてくれないのが慶喜だが、慶勝は慶応3年(1867)10月の大政奉還を「あの男」慶喜の「茶番だ」と見破る。

 幕末維新の動乱。四兄弟の中で、最大の悲劇を体験することになるのは幕府の要請で京都守護職を奉ずるはめになり挙句の果てに賊の汚名を着る容保と、会津、米沢、仙台、函館とラスト・サムライの意地で転戦、流浪して、しばらく行方知らずとなった定敬である。容保・定敬に比べると、慶勝のイメージは、一般に薄いであろうか。
 慶勝が幕末政治史の表舞台に登場するのは安政5年(1858)日米修好通商条約の批准をめぐっての不時登城で、井伊大老より隠居謹慎を命じられることである。これにより、慶勝は尾張藩主の座を追われ、江戸戸山の別邸に幽閉される。この不時登城の折の「苦い記憶」は終生、慶勝の胸中を占有したと作家は描いている。

 再びの登場は元治元年(1864)の第一次長州征伐。その家柄と立場上、長州征伐の総帥たる長州征討軍総督を引き受けさせられた慶勝は、征伐を長州藩三家老の切腹で決着させてしまうのだが、容保、定敬からは「長州への処罰が寛容すぎる。弱腰だ」とさんざん非難され、慶勝の処分案をいったん同意したはずの慶喜からは「尾張どのは薩摩の芋(西郷隆盛)に酔うたか」と揶揄される。慶勝は「自分の思い描く形での終結」を目指したが、弟たちにその構想を否定され、「互いに見限ったということだ」。兄弟の亀裂が最も激しくなったのが第一次長州征伐時である、と作家はみなしている。確かに第一次長州征伐は幕末終盤の分水嶺である。
 大政奉還以前は、「幕府の権威が落ちないうちに、新しい衆議の体制を整えるべし」と考え、維新前夜には、「どう言われてもいい。新しい政治体制に、せめて尾張だけでも参画しておく」とするのが、慶勝の持論であり深い信念であった。
 兄弟親類の中に攘夷・開国、勤王・佐幕の両派があり、骨肉相食む形で幕末史は進行するわけだが、維新後、再会を果たした際、兄慶勝は弟たちとどのような形で相対峙したのか。

 文久2年(1862)、四兄弟の父慶建が死す。幕府の崩壊を見ることなく逝ったことがせめてもの救いであったか。父には弟たちを託された慶勝は江戸と京都の両極に分断された政治に利用されながらも、斜陽の幕府を必死に支えようとし、かつ、弟たちを思い支えていたのだ。本書のタイトル『葵の残葉』にはそのような意味が込められている。表紙絵は葵の葉と4匹のアサギマダラ。アサギマダラはふわふわと飛翔し、人をあまり恐れないという。まさに四兄弟の生きざまが重なり合う。
「一枚の写真」が撮られた前年の明治10年(1877)は、西南戦争が勃発した年である。この年、慶勝は生涯最後の仕事としての北海道開拓を手掛けている。『冬の派閥』では、青松葉事件の後遺症をいやすべく考えられたのが藩士移住による八雲町(渡島半島の北部)の開拓だったとし、北海道開拓に多くのページが費やされている。

『冬の派閥』に比べ、本書では、「黎明期の写真家」という慶勝のもう一つの顔が活写されている。
 慶勝は長州征討の遠征に、写真撮影のための機材を持参して、多くの写真を残しているが、本書には、慶勝が切腹した長州藩家老一名ずつの写真を証拠として残そうとして、部下に拒否される場面がある。
 慶勝の死後、新政府軍の集中砲火を浴び白壁が無残にも崩れかけた会津若松鶴ヶ城の「一枚の写真」が慶勝の手許文庫の中から発見されたという。このエピソードをもとに、作家はまた一つの物語をつむぎ出している。慶勝はどんな思いでこの写真を入手保管し、またどんな思いでこの写真を眺めていたのか。尾張家の象徴つまりは徳川家のシンボルたる金の鯱の流浪の旅も織り込まれている。共に、これまた読みどころである。読者自らひもといてほしい。
 幕府の親藩、御三家筆頭たるにもかかわらず、真っ先に幕府を裏切ったのは合点がいかないと、裏切り男としてのイメージが強かった慶勝だが、本書を読んで、慶勝は最後まで徳川の一員として振舞って生きたことを読者は知るであろう。

 愛知県津島生まれ名古屋育ちの作家奥山景布子にとって、慶勝をはじめとする高須四兄弟への思いは同郷の先輩・城山三郎同様やみがたいものがあるのであろう。
 来年は「明治維新150年」。維新とは何であったか。「三つ葉葵」の最後の藩主を切々と描き、一見華やかでにぎにぎしい維新の裏面に秘められた真実を浮かび上がらせる人間ドラマである本書は〈幕末もの〉歴史小説として、出色であり、『冬の派閥』と甲乙つけがたい名作である。あわせ読みたい。
           (平成29年12月25日 雨宮由希夫 記)

書評『西郷の首』

書名 『西郷の首』
著者 伊東潤
発行所 角川書店
発行日 2017年9月29日
定価  1800円

西郷の首

西郷の首

 

 

 西郷隆盛の首を発見した男と、大久保利通を暗殺した男。加賀藩士の千田文次郎と島田一郎。加賀藩の下級藩士の家に生まれた2人は竹馬の友だった――。実在の人物である二人の青年の眼を通してつむがれる幕末明治の物語である。

 激動の幕末の諸藩の多くには、幕府を中心とした佐幕派と、長州藩を軸とした攘夷派、二派の対立があるが、加賀藩も例外ではなく、尊王と佐幕で揺れた。

 元治元年の禁門の変に際しての退京事件で、攘夷派を粛清してしまった加賀藩は維新の波に乗れなかった。鳥羽伏見の戦いでは、幕軍として戦う予定で出兵するが、上京途中で幕軍の敗北を知り、撤兵。慌てて新政府への恭順を表明すべく、戊辰戦争では官軍の主力として北越戦に出兵、多くの血を流した。が、政府への人材登用はならず、維新の恩恵を受けられなかった。
 明治2年版籍奉還明治4年廃藩置県で、藩は消滅。明治9年廃刀令秩禄処分。新政府による士族締め付け政策が次々に施行され、士族の旧来の特権が奪われた。士族の多くは士族を置き去りにした西欧化を強行する新政府に強い不信感と裏切られた思いを抱く。

 本書は二人の旧加賀藩士(石川県士族)の視点で物語が進む。幕末明治物といえば薩長土佐などの藩がおなじみであろうが、百万石の雄藩であった加賀藩が主役になっているところがまず珍しい。

 物語の前半は、幕末の動乱と二人の青春期。仲の良い二人は藩上層部の主導権争いに不満を抱きつつも、誇りある加賀藩士としてどう生きていくべきかと懊悩する。とりわけ加賀藩に投降した水戸の天狗党武田耕雲斎や藤田小四郎との出会いと交流では青年として真摯に生き抜く若者の姿が活写されていて思わず引き込まれる。
 戊辰戦争ではともに北越戦争を生き抜いた二人は、維新後、ともに困窮する士族を救済する組織に属したこともあったが、やがて進みゆく道を異にする。文次郎は陸軍の道に入り、一郎は反政府活動に身を投ずる。陸軍で順調に出世していく文次郎。一方、多くの士族が窮乏生活を余儀なくされるそんな時代を許せなかった一郎は困窮士族のために、一身をなげうつべく、反政府活動に傾倒していく。
 ここに至って、読者は加賀藩士の二人に、薩摩藩士の西郷と大久保の二人を重ね合わせることだろう。薩摩藩の下級武士の家に生まれ、同じ郷中に育ち、竹馬の友情で結ばれた二人は明治維新を成し遂げた盟友だが、討幕後の明治新国家建設を巡って対立、袂を分かち、大久保は西郷を死地に追いやる。

 明治10年2月、西南戦争が勃発するや、一郎は金沢の不平士族を糾合し、西郷軍に呼応すべく、武装蜂起を企てるが、合流の機会を逸する。
 一方、文次郎は政府軍の将校として西南戦争を戦い、負傷しながらも、自刃した西郷隆盛の首を発見する。
 西南戦争終結し、西郷の首を発見したのが、ほかなぬ文次郎であると知るや、一郎は文次郎を「恥知らず」と罵倒する。
 西郷の首が一郎にとっても、文次郎にとっても、武士の時代の終焉を告げる象徴であった、と描く作家の切り口が斬新である。

 ついに、一郎は政府の内務卿大久保利通の暗殺を画策、上京する。そのことに気づいた文次郎は出世の道を捨てるべく職を辞し、一郎を止めるべく急ぎ東京に向かい、一郎を諭す。「一つの時代が終わったのだ。もう武士の世には戻れぬ」と。しかし、一郎は応じない。
 明治11年5月、一郎は同じ旧加賀藩士らとともに(島根県士族一人含む)赤坂紀尾井坂にて 大久保利通を暗殺するという暴挙(紀尾井坂の変)に出て失敗、同年7月斬首される。

 数奇な星の下に生きた二人の男。このような世を創るために御一新を成し遂げたわけではないとの思いは同じであったはずである。それでも進み続けなければ行けない人生を元武士の矜持と悲しみで生きた。そもそも、二人を分けたものは何かと思いつつ、読者はページを括ることだろう。

 司馬遼太郎の『翔ぶが如く』は西郷隆盛大久保利通との対立を通じて新国家創世の苦悩に焦点を当てているが、本書『西郷の首』は幕末・明治という激動の時代に翻弄された下級武士の代表としての二人の青年の、家族愛と郷土愛に培われた友情と熱くも切ない別離の生きざまを通じて、武士という特権階級の消滅、武士の世の終焉を「西郷の首」に象徴させて活写し、「明治維新とは武士にとって何だったのか」を描きつくした痛快作である。
           (平成29年12月12日  雨宮由希夫  記)

書評『薬込役の刃 隠密奉行柘植長門守4』

書 名  『隠密奉行 柘植長門守4 薬込役の刃』
著者名   藤 水名子
発 売   二見書房
発行年月日 2017年11月25日
定 価   ¥648E

薬込役の刃 隠密奉行 柘植長門守4 (二見時代小説文庫)

薬込役の刃 隠密奉行 柘植長門守4 (二見時代小説文庫)

 

 
 田沼(たぬま)意次(おきつぐ)は寛政の改革の推進者・松平(まつだいら)定信(さだのぶ)が登場する以前、異例の昇進を遂げ、ほぼ15年間にわたり幕府中枢で権勢をふるい、いわゆる田沼時代を現出させた政治家である。人気シリーズ藤 水名子の『隠密奉行 柘植長門守』はその田沼の引き上げにより順調に出世街道を歩んできた柘植(つげ)長門守正寔(ながとのかみまさたね)を主人公とした歴史時代小説である。意次は正寔を見込んで佐渡奉行長崎奉行等の遠国(おんごく)奉行を歴任させ勘定奉行にまで引き上げてくれた正寔の恩人であるが、一方で、正寔は意次の政敵・松平定信と密かに誼を通じその命を帯びて行動する「隠密奉行」であるという設定が本シリーズの骨格となっている。
 田沼意次天明6年(1786)8月、意次を寵愛した10代将軍徳川家治(いえはる)の死の直後、失脚し、謹慎の身となる。

 シリーズ最新巻の冒頭の場面は謹慎の身となっている意次を正寔夫妻が訪い、妻絹栄(きぬえ)が習い覚えた東坡肉をふるまうシーンである。東坡肉は北宋の詩人・蘇軾(そしょく)が左遷先の杭州(こうしゅう)で考案したとされる浙江(せっこう)料理で、中央政界の復帰、左遷を繰り返した蘇軾の故事にあやかり、失脚中の意次に「どうか、望みをなくされませぬように」という夫妻の思いが込められている。さすがに『涼州賦』、『赤壁の宴』など中国を舞台とした数々の歴史小説の傑作をものした作家藤(ふじ)水名子 (みなこ)ならではの演出である。

 その数日後、田沼家の用人・潮田(うしおだ)内膳(ないぜん)が正寔を訪れるところから、物語が動き始める。「田沼家の要人」を名乗る人物を、この時易々と自邸に迎え入れたことが、後々己の身に禍を招くことになるとは正寔は露知らない。
 陸奥白河藩主の松平定信は8代将軍・吉宗の孫にして、将軍家の後嗣にとの声もあった切れ者だが、本シリーズの始まりの頃は正寔にとって定信は「小賢しい才子面の鼻持ちならぬ若造」にすぎなかった。正寔はこれまで何度か定信の言う「頼み事」とやらを聞き入れ、定信のために命がけの働きをしてきたが、それは正寔自身がそれをもっともだと判断したからであって、我が身を堕として定信の走狗になったのではないとの自負が正寔にはある。

 天明7年(1787)6月19日、松平定信は漸く老中首座に就任した。風貌もさわやかな28歳の青年老中の誕生であり、“質素と倹約、文武奨励に淫風矯正”を標榜した松平定信寛政の改革のはじまりでもある。

 ある日、正寔は定信から白河藩上屋敷に呼びだされて、「昨年のことだが、田沼家の用人潮田某が、そちの屋敷を訪ね、田沼家の隠し財産のことを告げたのではないか?あるいは、最も信頼できる田沼派のそちに、隠し財産を託したのではないか?」と問い質される。
 幕府は意次に謹慎を命じる際、大坂の蔵屋敷に保管されていた財産をはじめ、家治の代に加増された二万石も神田橋御門外の江戸屋敷も没収していた。さらに、国元の遠州相良城を幕府は徹底的に破壊し尽くし、そこに秘蔵されていた金品と穀物をすべて押収した。だが、定信はそれでも納得せず、それ以外にも、まだ隠し財産があると、本気で思い、奪おうとするのは権力者側の横暴ではないかと正寔はあきれる。
 本当に、意次の隠し金があるのかというその一点に正寔の興味は集中し、核心に近づくほどに正寔は刺客につけ狙われる。あくまでも陰にて定信の役に立つべき者としてふるまう正寔は世間的には一応田沼派とされているが、田沼派と反田沼派の暗闘、幕閣内での容赦のない田沼派の粛清も絡み、読者の予断を許さない展開となってくる。

 副題に「薬込役の刃」とある。薬(くすり)込役(ごめやく)は一般には火縄銃の弾込め役の意だが、本書では、もともと紀州藩お抱えの忍び衆であって、吉宗が江戸城に入ったときから、御庭番、紀州に残された者たちの二派に別れ、紀州に残された者の大半は、江戸に伴われなかったことを怨んだとされる。

 本シリーズはそもそも忍者の生きざまを伏線とした物語でもある。主人公の柘植長門守正寔は実在の人物で、1500石の旗本だが、柘植家は所詮は正式な武士とは言えぬ伊賀者いわゆる「忍」の家系であったと造形されている。シリーズの常連《霞》の六兵衛は伊賀随一の遣い手で代々柘植家に仕える上忍である。
 田沼の隠し金を私せんとする潮田内膳が柘植家の忍び・新八郎を言葉巧みに丸め込み、正寔を裏切るように仕向ける。正寔はまさか自分が田沼の隠し金の相続人に指名されていたとは夢にも思っていない。潮田内膳とその一味は掃討されたが、それですべてが終わったと正寔は思っていない。正寔には、六兵衛に厳しく育てられた新八郎が死を賭しても、なにか自分に伝えたかったことがあるのではないかと思えてならない。

 天明8年6月、先の老中、田沼意次 死す。齢70。前年の天明7年10月には意次に蟄居の命が下され、5万7千石すべてを召し上げられたうえでの閉門蟄居の状態に置かれていた。失意、無念の死であったにちがいない。
 あれほど目をかけていただいたのにと、正寔の心は激しく痛んだ、俺はとんでもない恩知らずだと……。

 物語はまだまだ終わらない。次巻へと続く。
「白川の清き流れに魚住まず、濁れる田沼いまは恋しき」と、定信が筆頭老中の座について、数ヶ月後には懐かしがられた。人の評価はまことに難しい。
 意次が正寔に語りかけた次の言葉で、作家が意次を単なる金権政治の権化、悪徳政治家とはみなしていないことは明白である。
佐渡(さど)では苦労したであろう。それに比べて、長崎(ながさき)はなにかと実入りが多いと聞く。せいぜい儲けるがよいぞ。いくらでも私腹を肥やしてもよいが、それ以上に、幕府に利益をもたらさねばならぬぞ」。

 意次を肯定的にとらえた作品としては、意次全盛時代を背景として展開させた池波正太郎の『剣客商売』がTVドラマ化されたこともあり一般にはなじみ深いであろう。意次の人物像に本格的に迫った歴史小説としては山本周五郎の『栄花物語』、平岩弓枝の『魚の棲む城』があるが、両書とも失脚後の意次を詳しく描いてはいない。藤水名子の本シリーズは先行するこれらの作品とは趣を異にする作品で、ことに最新巻は、「意次の隠し金」をキーワードに、主人公隠密奉行柘植正寔をめぐっての、幕閣の複雑で濃密な人間ドラマを巧みに繰り広げることにより、田沼の失脚後の落莫とした2年間を描きつくしている。
       (平成29年11月14日  雨宮由希夫 記)
 

書評『治部の礎』

書名『治部の礎』                   
著者 吉川永青
発売 講談社
発行年月日  2016年7月19日
定価  ¥1850E

治部の礎

治部の礎

 

 

『治部の礎』は浅井長政の家臣を父として生まれ、18歳で秀吉に仕え、秀吉の天下統一事業を支える側近中の側近に昇り詰め、関ヶ原の戦いで敗れ42歳で刑死するまでの石田三成の生涯を辿った歴史小説である。
 神君家康に弓引いたとして江戸期を通じて「佞臣」と貶められた三成の虚像はいびつなままに近代に引き継がれ、これまでの歴史小説においても三成の評価は必ずしも高くはない。千利休切腹、秀次の誅殺など秀吉の晩年に起こった暗い事件のほとんどは権力者に取り入った「茶坊主」三成の奸謀であるとした歴史小説もある。『誉れの赤』、『裏関ヶ原』など優れた<戦国もの>歴史小説をものしている気鋭の歴史小説作家の吉川(よしかわ)永(なが)青(はる)がいかなる三成像を描くのか、興味を持って本書を紐解いた。


 ただ一度の武功すら挙げることのなかった「三成の戰下手」の代名詞となった忍(おし)城(じょう)(埼玉市)の水攻めが語られる。天正18年(1590)春の秀吉の小田原征伐に当たっての忍城水攻めは、和田竜の『のぼうの城』(小学館、2007年刊)では、攻撃の大将の三成自身32歳が主君秀吉の備中高松城を水攻めした前代未聞の故智に倣って計画したものとされている。が、本書の作家は、忍城の水攻めは秀吉の下命によってやむなく行われたことで三成の意思ではなく、命じた秀吉に瑕を付けないことが何より大事と考えた三成があえて戰下手の汚名に甘んじたのだと物語っている。
 本書で重要な役回りを演じるのは島(しま)左近(さこん)と大谷吉(おおたによし)継(つぐ)のふたりである。
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とうたわれたほどの武将である島左近と三成は山崎の合戦を前にして、「洞ヶ峠」の大和郡山城主筒井順慶の陣で出会ったとしているところが興味深い。時に左近は順慶の家臣であり、三成は秀吉の命で順慶を訪ねるのであった。さらにのち、浪人して隠棲していた左近を三成が千利休の遺言に従って召し抱え肝胆相照らす主従となるというくだりも興趣溢れる。従前の歴史小説では「天下一の茶頭」千利休と小賢しい若手文治官僚の三成とは同じく秀吉のブレーンながら厳しく対峙するものとして描かれることが多かったが、本書では、まったく趣を異にしている。千利休石田三成の人間関係を探るだけでも、本書には一見の価値がある。


 大谷吉継関ヶ原の戰の帰趨を知りながらも、死生をともにすべく誓い合った盟友である。「人に対して横柄すぎる」と三成の欠点をついた忠告をする吉継と吉継にたしなめられても受け流す三成の阿吽の呼吸。吉継は長束正家佐竹義宣真田昌幸らと共に忍城攻めに参加した武将の一人であり、彼らが皆、関ヶ原では 西軍に与しているのも奇しき因縁というべきか。人望を集める華やぎがなかった三成の性格も関ヶ原敗戦の一因だとされるが、三成を真に理解する友はいたのである。


 歴史上の人物はその最期によって評価されてしまうきらいがあり、三成の場合は「関ヶ原の戦い」と共に語られるのもいたしかたない。
 三成が秀頼を擁して家康打倒の兵を挙げた関ヶ原の戦いは慶長5年(1600)9月15日のわずか一日で決着してしまったが、豊臣家の家臣であり、盟友であったものが敵味方となって戦った点に特色がある。関ヶ原には彼らの見果てぬ夢、欲得、恨み、嫉妬、不満、鬱積などが複雑に絡み合い激しく渦を巻いており、戦いを左右したのは表裏ままならぬ人間の業であった。
 関ヶ原における三成の敗戦の因を、太閤秀吉の義理の甥で元養子の小早川秀秋の「裏切り」に求める見方がある。1万5千の大軍を擁し松尾山に陣する小早川秀秋に謀叛の懸念があることは三成にとっては織り込み済みのことであったが、本書では、本来、秀頼や毛利輝元のために準備した松尾山が唐突に秀秋に占拠されたと知り、狼狽する三成が描かれている。陣地としての松尾山の戦略性を指摘した歴史小説は稀有である。
 三成の誤算は三成の意に反し、東軍の動きが敏速であったことにつきようが、そもそも、関ヶ原の戦の原因は秀吉家臣団には二つのグループがあり、グループ間でのヘゲモニー争いにあった。


 二つのグループとはいずれも秀吉を父と慕った秀吉子飼いの武将たちで構成されたグループで、「武断派と文治派」、「尾張閥と近江閥」、「北政所(きたのまんどころ)派と淀(よど)殿(どの)派」のように表されるが、本書では「槍働きと裏方」と表現される。「槍働き」は加藤清正福島正則に代表される野戦武将で、「裏方」は三成のような内治に携わる文治官僚である。両派の嫉視反目は秀吉在世時から存在し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)で、不和と憎悪は救いがたいものになっていた。特に本書では、秀吉の懐刀の三成が独裁者秀吉の眼を意識し、命に従って戦うと見せながら、戦争続行の意欲の強すぎる清正らを排除して、和平工作を図る姿が描かれる。「槍働き」の清正らに嫌われたことが三成にとって致命的な打撃となったのである。


 三成の初陣となった「賤ケ岳」から「関ヶ原」に収斂させていく作家の構想力は、人間描写の妙に及んでいて、息もつかせない。関ヶ原の戦いでの勝敗の帰趨を後世の人間たる読者は誰もが知っており、読者の眼は関ヶ原をめぐって展開された人間模様を作家がいかに描くかに向けられるのである。人間模様とは人間いかに生きるべきかの永遠の課題である。


 三成に関わり、数奇な運命の下で生きた二人の若者に作家の筆は及んでいる。
 一人は本能寺の変で討たれた信忠の嫡男・織田秀信。「信長の嫡孫・三法師」として秀吉の天下取りに利用されるも、三成を慕い、織田一族のほとんどが東軍に与した中で、西軍に与し、岐阜城主として戦うも敗れ、高野山に追放され5年後26歳の若さでこの世を去っている。もう一人は結城秀康。家康の次男、秀忠の庶兄である。家康に嫌われ、小牧・長久手の戦の講話後、秀吉の養子となり、関ヶ原の戦いでは、本流の戰場から外され、下野国小山に陣し、上杉景勝の西上を阻止する役目を負った悲運の徳川嫡流である。二人の若武者から「もう一つの関ヶ原」が浮かんでこよう。


 最終章で、逮捕された三成が大津の家康の陣に引き据えられ、家康と対面するシーンがある。家康は西軍の首謀者として三成を罪人として扱うが、三成は臆することなく家康に対峙し、家康の天下取りの野望を糾弾し、今後の豊臣家への存念を、さらにはどんな政権を造るのか問い糾すシーンはラストシーンながら、本書最大の読みどころである。
 ひるがえって、三成挙兵の狙いは何だったのか。ただ秀吉の恩顧を思い、義のためにだけに、ただ一人敢然として家康に立ち向かうべく決起したのではないことは明らかである。


 秀吉は「天下布武」を標榜した信長の後継を自任していたが、秀吉自身には明確なビジョンはなく、豊臣家がすべてを支配する体制をビジョンに描いていたのは三成である。三成としては、家康の天下取りの野望の下、自らが秀吉の下で作り上げた制度や掟が変えられていくのが我慢できなかったに違いない。石田三成は戦なき安定と繁栄の世、泰平の国造りの礎たらんとした信念の男であった、と作家は描く。『治部の礎』、書名の由来はここにある。


 なお、本書に引き続き、「関ヶ原」と人間模様をテーマとして著わされた『裏関ヶ原』(講談社、2016年12月刊)は今年度の中山義秀文学賞の最終候補作にノミネートされている。受賞を願いつつ、本書と共に併せ堪能したい。
                (平成29年10月19日  雨宮由希夫 記)

書評『有楽斎の戦』

書名『有楽斎の戦』                   
著者  天野純
発売 講談社
発行年月日  2017年8月22日
定価  ¥1600E

有楽斎の戦

有楽斎の戦

 

 

 本書は「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」という、戦国史に残る三大事件を時代背景に、それぞれ、織田有楽斎ともう一人の人物を主人公に配した6編の連作短編で構成された歴史小説である。有楽斎のみが三大事件のすべての現場に居合わせている。

 幼名は源五、長じて長益と名乗った織田有楽斎織田信秀の11男で、13歳も年下の覇王信長の弟である。なぜに有楽斎なのかの問いに、天野は「本書刊行記念エッセイ」(『現代小説』2017年9月号所収)で、「大ピンチをことこどく乗り切る強運。悪評をものともしない精神的タフさ。有名人の弟のくせに経歴に空白部分が多いのも、作家的にそそられる」と応じている。

 本書の巻頭を飾るは「本能寺の変源五郎の道」の章。
 主人公は「私」、源五郎長益の一人称である。数奇の世界に魅了された35歳の「私」が武人としての栄達は捨て、千利休を師と仰ぎ、茶の湯の道に生きようと、己の生に意義を見出すところからスタートしている。しかし、一年余の後の、天正10年(1582)2月、「私」は武田討伐の軍中にあった。戦は嫌いだが、信長の弟として生まれた以上、戦と無縁ではいられないらしい。有楽斎にとっての信長という存在は常に恐怖の対象としてあるが、今の「私」があるのはすべて兄のおかげであることも事実である、と作家は有楽斎の心性を造形している。持って生まれた宿命という他はないということであろう。

 さらに刮目すべきは、甲州征伐で「私」と轡を並べる人物として甥の源三郎信房(のぶふさ) (信長の5男、勝(かつ)長(なが)。幼名坊丸)を登場させていることである。勝長は本能寺の変に際して、兄信忠に殉じて討死した信長のもう一人の息子である。幼くして東美濃の岩村城主の遠山景任の養子となり、やがて人質として武田家におくりこまれ、武田氏の下で元服、勝長と称した。織田・武田の戦いを前にして勝頼より信長に送り返され信房と名乗り改め、更には青春のほとんどを過ごした思い出深い甲斐国に攻め込む。遂には、そのわずか4ヶ月後、本能寺で討死。数奇な運命のもとに生まれ、時代に翻弄されたまさに流転の生涯を送った人物である。

 諏訪の法華寺の本堂で、武田攻めの論功行賞が行われた際、信長が明智光秀を折檻するという名高いシーンがある。
 光秀の顔を蹴り上げる兄。その兄信長を「事実上の兄の家来であるが、あくまでも盟友である」家康が折檻を辞めるよう諫める。そこで信長は「天下を平定しても戦は続く」との言葉を発する。

 人物配置の妙。切り取りが絶妙である。ひとつかみの文章によって、歴史の場面が彷彿と浮かび上がってくるのである。明敏な読者は状況描写から織徳同盟の本質を、信長が口走った発言から、光秀謀反の遠因を見出すことであろう。
 信長が大陸出兵をいつごろから意図していたか諸説あるが、それはひとまず置くとして、武田氏を滅ぼすことにより、信長による天下統一がほぼ完成したと一息ついた光秀が、「信長が天下人の座にある限り、戦は果てることなく続くのか。このまま織田の陣営にあってもいつも最前線に立たされ、いずれは死なねばならぬ。つまりは信長に殺される」とこのとき覚悟したものと読み取れる。

 さて、本能寺の現場。天正10年(1582)6月の本能寺の変の際には、有楽斎は信長の嫡男信忠と共に二条御所に一時立て篭もるが、信忠は自刃、長益自身は城を脱出し、岐阜まで逃れたとされ、「逃げの有楽」の異名がある。巷説では本能寺の変の際に信忠に自害を進言したのは長益だとされるが、このとき、長益は信忠の遺志を託されたのではないかとの見方もできよう。
 本書では、ただ、「自害を決意した信忠がはじめて声をかけてきた。『「叔父上は、好きになされるがよい』」とある。ここでも、ひとつかみの文章によって、有楽斎の心性を奥深くとらえる手法が冴えわたる。

 兄信長は死んだ。もう、自分を縛るものは何もない。京を出よう。そして武士など捨て、信長の弟ではないただ一人の男として、茶の湯の道に生きよう。
 嗤われようと蔑まれようと己の道を進むのだ。生き京を出られたら、「私」は甲斐へ行くつもりだ。この手で命を絶った甥信房の遺髪を彼の地に埋めてやる。 それが私の、織田家の男としての最後の仕事になるだろう。「私」の生涯で戦場へ出ることはもうないであろう、と有楽斎の独白は続くが、二人の甥の死に立ち会って、「私」が命に代えて供養しようとしたのは、普段は武将として叔父としての自分など歯牙にもかけぬ信忠ではなく、薄幸の信房であったのである。

 本能寺の変後、有楽斎は秀吉に仕えた。武将としてより茶人として仕えて御伽衆に甘んじている。秀吉が没すると家康に接近し、慶長5年(1600)(54歳)、関ヶ原の戦いでは、家康の要望で駆り出され、東軍に属して手柄を立て、大和国3万石という過分の功賞を授かっている。関ヶ原の戦いのあとも、大坂城に在り豊臣家に出仕を続け、豊臣秀頼の母・淀君の叔父として豊臣家を補佐した。大坂冬の陣では大坂城に入り、城内の動静を探り、徳川方に内通する間諜の役を務めていた。それがための大和国3万石であった。淀殿・秀頼母子を思う叔父心には偽りはないであろうが、すべては茶番であった。家康の盟友であった信長の弟として別格の扱いを受けたが、秀吉の天下取りに利用されたように、天下人家康にも利用された。織田ブランドは大きく、本人もそれを十分意識して活用して生きのびる。数寄の世界に魅了された有楽斎は生きる為に足掻く。それが有楽斎の戦であった。

 3事件すべてに共通する主人公は有楽斎だが、各事件には有楽斎とは別にもう一人の人物を主人公として登場させた短編が添えられ、有楽斎の生きた戦場が別視点で描かれている。
本能寺の変」では、信長に招かれて本能寺の客殿に宿泊し、変事に遭遇するや、空海の筆跡を持ち帰った博多の豪商にして茶人の島井宗室。「関ヶ原の戦い」では、東西両軍の命運を握り、道化を演じることにより徳川の天下を決定的なものにしたが、徳川に謀殺された裏切り中納言小早川秀秋。「大坂の陣」では、真田幸村を討つなどの武功を挙げ、天下を夢見た”家康の孫”松平忠直、の三人である。複眼で3事件の真実に迫るとともに、有楽斎の戦の特異さを際立たせている。

  天野(あまの)純(すみ)希(き)は1979年愛知県生まれ。愛知大学文学部史学科卒業。2007年「桃山ビート・トライブ」で第20回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。13年『破天の剣』で第19回中山義秀文学賞を受賞。今年春5月には、信長によって人生を狂わされた7人の男を主役として書き、連作として繋ぐことによって、信長の「影」を逆照射し、信長とその時代を描き出すという従来の<信長もの>とは違った異色の歴史小説である『信長嫌い』(新潮社)を上梓したばかりである。


 過去の歴史はもはや変わりようがなく、私たちの知り尽くした物語が展開されつくしても、ひとの生きざま、死にざまを垣間見て何とも言えない気分を感じさせるのは作家の持つ天賦の力量、才なのである。歴史時代小説という文芸に力があるのはこのような雰囲気を醸し出すことができるからである。そういう当たり前の感慨を改めて確認した思いである。
 やはりこの作家の作品は見逃せない。

                 (平成29年9月21日  雨宮由希夫 記)