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歴史時代作家クラブ公式ブログ

現在活躍中の歴史時代作家が多数所属する文学団体です。「歴史時代作家クラブ賞」や各種イベントなどの会の活動、新刊書などの最新の会員の仕事を紹介します。初めにこちらをお読みください。→http://rekishijidaisakkaclub.hatenablog.com/entry/2014/08/01/105546

書評『峠越え』 伊東潤

雨宮由希夫

書名『峠越え』
著者  伊東 潤
発売 講談社
発行年月日  2014年1月9日
定価  ¥1600E

 

峠越え (講談社文庫)

峠越え (講談社文庫)

 
峠越え

峠越え

 

 

 家康はいつの時点で本能寺の変を知ったのか、という興味深い問いかけがある。一説によると、家康は勃発前の「本能寺」を知っていたのではないか、光秀の謀叛には家康も一枚絡んでいたのではないか、とも。それはともかく、信長が本能寺の変に斃れなかったなら、天下人としての家康の出番はなく「江戸時代」もなかったに違いない。
 本書は「家康と本能寺の変」を史材とした歴史小説で、武田氏を滅ぼした直後の天正10年4月14日、東海道を使って帰国する信長を、家康が駿府城に迎え饗応するシーンに始まり、本能寺の変が勃発し、信長の死が確認された後の6月4日、自領三河へ帰着すべく「伊賀越え」して伊勢湾の洋上に浮かぶ家康までが描かれている。
 
 本書をひも解く前に、当時の時代背景を略述したい。

 天正10年(1582)3月11日、武田勝頼が天目山で自刃し、甲斐源氏の名族武田家は滅ぶ。武田氏を滅ぼしたのち、信長は今川氏の旧領駿河一国を家康に与える。5月、信長からの招請があり、家康は信長へのお礼を兼ねて、武田の遺臣穴山(あなやま)信(のぶ)君(ぎみ)(梅(ばい)雪(せつ))を伴って安土に伺候する。穴山信君は信玄の甥、勝頼の姉婿で、武田家親類衆筆頭の座にあったが、家康を通じて信長に内応し、勝頼を裏切って敗死させた人物である。5月19日から3日間にわたる安土での饗応の後、家康らは信長から京、奈良、堺の見物をすすめられる。家康らは堺で本能寺の変に遭遇する。家康は生涯に遭遇したどのケースとも違う危機に直面した。信長の横死により、いまや畿内の地は完全に無警察状態となり、行路は難渋をきわめた。とにもかくにも家康主従は伊賀越えの危難を乗り越え、三河へと帰路に着くが、家康と別行動をとった梅雪は途中で土民に襲われ殺害される。

 以上が史実であるが、作家はいかなる物語的構想のもとで史実に立ち向かうのか。コインの両面のように史実と物語的構想が不可分の時、適度な重みがある作品が生まれる。

 家康は6歳から19歳まで13年にわたる人質生活を余儀なくされた。駿府は家康にとって思い出の地である。堪忍自重し石橋をたたいて渡るような家康の生き方は長い人質生活がもたらした劣性コンプレックスから育まれたものと思えるが、本書の作家は凡庸の才しか持たぬ者の生き方を家康は今川氏の執政、軍事である太原(たいげん)雪(せっ)斎(さい)から教えられたと語りはじめている。

 山躑躅の咲き乱れる駿府城内の望嶽亭の庭で、勝頼の首を前にして得意の「敦盛」を披露する“天才”信長と対峙しながら、“凡才”家康が現実と回想を繰り返す————回想にふけりつつ、行きつ戻りつ、現実に引き戻される————という手法のなんと卓抜であることか。「人間50年化天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり……」。宿敵武田氏を滅ぼし、一つの得意の極みに達し舞い踊る信長を見つめながら、家康は何を思ったであろうか。「人間50年」と言われた時代である。敗者勝頼はともかく、家康を死線に這わせた信玄は53歳で逝去しているが、武田氏を滅ぼした眼の前の信長がよもや三カ月も経ないうちに、49年を一期として逝ってしまうとは家康には思いもつかないことであったに違いない。

 永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦い今川義元を破った信長は、翌々年の永禄5年1月、当時松平元康と名乗っていた三河岡崎城主の家康と同盟を結ぶ。信長の同盟者となって、家康の運は開けるのだが、回想シーンとしての「桶狭間」にも、新たな造形が織り込まれているのは小説としての興趣である。

 桶狭間の戦い時、19歳の青年武将であった家康は信長に内応すべく、「義元が6月2日牛の刻、桶狭間の漆山で中食を取る」との機密情報を織田方に伝えたと本書は物語る。桶狭間の内応がのちの同盟への伏線となっているのだ。

 織田徳川同盟は信長の死によって自然解消するまで、表面的には揺るがずに続いた。盟友盟邦として固く結ばれ、互いに親密で助け合って進んだことはこの時代としては珍しいとの見方もあるが、信長の前に命を投げ出して戦いに明け暮れた家康は同盟者としての義務を果たすべく奮戦しているのは事実である。

 信長との同盟は、しかし、家康の側からすれば、信長と手切れになってもおかしくない場面も少なからずあった。その最たるものが長篠の戦いの3年半後に突如起きた築山(つくやま)殿(どの)事件(じけん)[天正7年(1579) 家康38歳]である。家康はその正室の築山殿と嫡男の信康が武田家と内通しているという疑いを信長からかけられる。築山殿は今川義元の姪であり、信康の妻は信長の娘であった。信長に抗拒する実力を持たない時期の家康は泣く泣く糟糠の妻と最愛の息子を殺害せざるを得なかった。家康信康父子の短い会話が読む者を惹きつける。家康は生涯、信康の死を哀惜し家臣の前でも愚痴ったと伝わるが、本書で作家は無実の息子を差し出してまで己れの保身に走る家康の苦悶を描くとともに、信長の狙いが信康の命であること、信長はなんとしても信康を殺したかった、と断じている。   

 家康は信長の忠実な同盟者として振舞いながら、天下取りの野心を絶やすことがなかったと、家康の心中を忖度する見方もあるが、この時の家康は天下どころかいかにして生き残るかしか念頭になかったに違いない。苦悶する家康を描くことによって、信長との同盟の本質は家康にとって対等のものではなく、隷属を強いられたものに過ぎないものであるとしている。信長にとって家康は「今川家と武田家の西進を防ぐ壁」にすぎない存在であれば、武田家が滅んだ今、「己れの存在意義がなくなった」と家康が気づくのは自然である。

 とすれば、「家康の安土訪問」とは何であったか、作家の物語的構想のゆくつく先がおよそ想像がつこうというものである。

「武田家が滅んだことで、信長にとって家康は用済みとなった。それどころか織田家の天下のために、一転して邪魔者となった。そこで信長は家康を安土に呼び出して討ち取ることにした。」家康は安土へ行けば信長に殺される可能性があると身構える。また、家康の上方見物は安土最後の日に、突如、信長から半ば強要に近い形で提案されたと作家は物語る。

 5月21日、家康らは長谷川秀一の案内で京に入る。秀一は信長の近習、目付であるが、道案内に名を借りた監視役である。信長は最小の犠牲で最も煙たい武将の一人である家康を斃せるのだ。『信長公記』によれば、21日に入洛した家康一行が28日に堺へ行くまでの一週間、家康が何をしていたのか明らかではないが、ここで作家のイマジネーションが冴える。秀一から鞍馬行きをすすめられた家康は、梅雪が鞍馬行きを諾としたのに対し、危険を察知して断ったとしている。

 堺での饗応の後、本能寺の変を知った家康は「伊賀越え」の道を選び、別行動をとった梅雪は横死する。本書の展開は表面上、史実の通りだが、その内実はどうであったか。それは本書を読んでのお愉しみであるが、本能寺の変は信長が家康を排除すべく、光秀とともに仕組んだ狂言だった、とする途方もない奇想が盛り込まれているのみ記しておこう。なお作家には短編集『戦国鬼譚 惨』があり、その一篇「表裏者」の主人公は梅雪である。

 本書の書名は『峠越え』。家康の遺訓とされる「人の一生は重きを負うて遠き道をゆくがごとし」が連想されるが、家康生涯75年の中での大危難「伊賀越え」をふまえている。「東照大権現」と崇められる家康の生涯をふりかえれば、信長の最期、秀吉の最期、二人の盛衰をじっくり眺め、彼らを反面教師、他山の石として、堪えるだけの忍耐力と粘りで一歩一歩、堅実に緻密に先へ進んだ人生の成功者である家康が浮かび上がってくるであろう。しかし、神君ではない、若き日の家康はどうであったか。

 人生の大転機となった本能寺の変天正10年時、家康は41歳。その41歳の年の晩春から初夏にかけての、わずか50日余の日々が、この小説の時代(舞台)背景となっていることから明らかなように、作家は大成した神君家康ではなく、若き日の家康の素姿を描きたかったのである。
                 (平成26年3月9日  雨宮由希夫 記)

書評『不抜(ぬかず)の剣』

雨宮由希夫

書 名   『不抜(ぬかず)の剣』
著 者   植松三十里
発行所   H&I
発行年月日 2016年5月8日
定 価    ¥1800E

不抜の剣

不抜の剣

 


 植松三十里は史料を丹念に読み込み史実の裏にひそむ〈真実〉に迫る本格的歴史小説をものする数少ない女流作家である。

 第27回歴史文学賞を受賞した『桑港にて』〔文庫改題『咸臨丸、サンフランシスコにて』〕(2003年)以来、『黍の花ゆれる』〔文庫改題『西郷と愛加奈』〕(2005年)、『お龍』(2008年)、『群青 日本海軍の礎を築いた男』(2008年)、『北の五稜星』(2011年)、『黒鉄の志士たち』(2012年)、『志士の峠』(2015年)、『繭と絆 富岡製糸場ものがたり』(2015年)等々、一貫して幕末明治を舞台とした歴史小説を発表してきた。その植松が日本武道館発行の「月刊武道」に斎藤弥九郎(1798~1871)を主人公とした小説を連載していると聞いて、いかに弥九郎と切り結び、この度はどのような幕末明治をみせてくれるのだろうかと興味を持ったものだ。

 幕末江戸期は史上空前の剣術繁栄期であった。世情不安から剣術が盛んになり、江戸の道場はどこも盛況であった。斎藤弥九郎の開設した神道無念流練兵館は桃井春蔵の鏡新明智流士学館千葉周作北辰一刀流玄武館と並んで幕末江戸三大道場と呼ばれたが、練兵館は西洋砲術を教えることで人気を博したという。

 斎藤弥九郎についての小説はエピソードをあつめた史伝めいたものが直木三十五菊池寛・本山荻舟、童門冬二戸部新十郎らによって書かれているが、本書『不抜(ぬかず)の剣』は斎藤弥九郎の生涯を描いた本邦初めての長編歴史小説である。弥九郎の生い立ちから晩年に至るまでがきめ細やかに描きつくされている。

 弥九郎は能登半島の付け根の越中国射水郡仏生寺村(現在の富山県氷見市仏生寺)の郷士斎藤新助の長男として生まれている。文化12年(1812)、一分銀一枚を懐中に入れ15歳で単身江戸に出た。その折のみじめな体験から「人としての誇りを護るために、剣術を身に着けた」と後年述懐しているが、そもそもは学者への志を抱いての出奔であって、剣士を目指したものではなかったことが知れる。

 旗本能勢氏に奉公しながら、剣術を神田裏猿楽町の神道無念流岡田十松の撃剣館に学んだ。撃剣館で、師・岡田十松に出合い、その門下生の江川太郎左衛門英龍、藤田東湖渡辺崋山らと相知り親交を結んだことが弥九郎の人生を決めた。

 英龍、東湖、崋山に引き続き、大塩平八郎徳川斉昭芹沢鴨高島秋帆鳥居耀蔵吉田松陰桂小五郎、中島三郎助といった幕末のキーマンが続々と登場し、しかも彼らのすべてが斎藤弥九郎と深く関わった人物であることを知るに及び、読者は驚くことになろう。剣豪斎藤弥九郎を通じて大塩平八郎の乱から幕府崩壊に至る幕末の混乱がいとも鮮やかに絵解きできるからである。

 品川沖お台場の建設や伊豆韮山反射炉などの築造で有名な江川太郎左衛門英龍は海外事情や海防問題に深い洞察を持っていた江戸幕府の伊豆韮山世襲代官であるが、弥九郎にとって江川は3歳年下の剣術の同門であり、盟友であり、主従であった。

 文政9年(1826)、29歳で独立し、江川の援助で九段坂下俎橋近くに練兵館を開く。江川はつねに弥九郎に対する経済的援助を惜しまず、片や、弥九郎は江川の良き補佐役・相談役・懐刀 を勤め、江川を支えることが自分に与えられた役目であるとして、”脇役”に徹して行動している。

 天保8年(1837)、大塩平八郎の乱がおこると、江川の命により、乱の真相を探るため、大坂へ赴き、江戸へ戻るや、江川とともに、刀剣行商人に扮して江川の領地である甲斐国の状況を見て回っている。

 蛮社の獄(渡辺崋山高野長英らへの弾圧事件)でも洋式兵法の先覚者・高島秋帆逮捕の際にも、保守的で天性の酷吏というべき鳥居耀蔵に敵視され辛い立場に立たされた江川のために奔走している。

 江川と並び弥九郎に思想的に多大な影響を与えた人物は水戸藩士の藤田東湖である。弥九郎は後期水戸学の大成者の一人である藤田東湖を深く敬愛し、その縁で水戸藩徳川斉昭から下げ渡された会澤正志斎の『新論』に出会う。尊王攘夷理論を確立したこの書物を読み、幕藩体制を解体し、天皇中心の中央集権国家に作り直そうという理論を、幕臣江川家の家臣である弥九郎は「とてつもない説だ」と共鳴し、若い吉田松陰桂小五郎に期待を抱く。水戸学イデオロギーの長州への流入は一つには弥九郎の練兵館を通じたのである。

 英龍、東湖とともに弥九郎の生涯に欠かせないもう一人の人物、桂小五郎木戸孝允)の造形も読みどころである。江戸の三大道場はまた抜群の門脈を誇ったが、長州藩藩士の多くを練兵館に送って学ばせた。桂小五郎練兵館の塾頭を務めるほどの剣客であった。

「平和な時にも乱に備えよ」とするのが神道無念流の心得である。「武」は「戈を止める」と書く。戈を止めるのは楯、ならば武の本質は楯であるとする。今日でいう専守防衛の考えである。討幕運動で、白刃の下を幾度となく掻い潜りながら仲間を見捨てて逃げた桂には「逃げの小五郎」の不名誉なあだ名が伝わるが、実は師弥九郎の教えを頑なに守り抜いたこそのあだ名だったと知る。

 嘉永6年(1853)6月、浦賀に黒船来航。急遽江戸湾内の防備を固めるべく、台場築造の場所を選定する必要に迫られ、幕命によって江川は江戸湾岸を巡視。このとき、弥九郎も同行している。桂小五郎が弥九郎の下僕に扮して、幕府による台場の工事現場を見て歩くのはこの時のことである。

 明治元年(1868)、明治政府に出仕した弥九郎は翌年、造幣寮(後の造幣局)の権判事となる。大塩平八郎の屋敷跡が大阪造幣局となった。大塩平八郎と弥九郎の関わりを知っている桂が弥九郎を招聘したのであった。かくして、”脇役”弥九郎を介し、桂小五郎大塩平八郎江川太郎左衛門がつながっている。なんという奇観であろうか。


 本作は「剣豪小説」とはいえ、剣の修行や剣の道に命を懸ける剣術家の描写がない。郷士出身で剣技という特殊技能で世に出た点では近藤勇土方歳三らと重なる部分もあるが、そもそも、作家はあの時代状況下、農家の惣領息子が農家を離れ、江戸に出ることの意味を弥九郎と父新助の確執、母お磯の愛を通じて物語ることからはじめている。弥九郎を陰から支え続けた妻小岩との夫婦愛も胸を打つ。練兵館の主として剣術を教えるかたわら、時代の改革と進歩に貢献した人々と交流するも、自ら表舞台に立つ事なく、一介の剣客として一人の人間として異色の人生を歩んだ斎藤弥九郎の〈真実〉が鮮明に浮かび上がる力作である。
 (平成28年7月1日  雨宮由希夫 記)
 

「第5回 歴史時代作家クラブ賞」決定!

連絡事項

「第5回 歴史時代作家クラブ賞」決定

 

① 新人賞
片山洋一『大坂誕生』朝日新聞出版
松永弘高『決戦! 熊本城  肥後加藤家改易始末』朝日新聞出版

② 文庫新人賞
新美 健『明治剣狼伝―西郷暗殺指令』角川春樹事務所時代小説文庫

③ シリーズ賞
井川香四郎
辻堂魁

④ 作品賞
澤田瞳子若冲文藝春秋
梶よう子『ヨイ豊』講談社

⑤ 実績功労賞
安部龍太郎

⑥ 特別功労賞
加賀乙彦

【授賞式】  6月15日(水) 日本出版クラブ会館

【歴史時代作家クラブ賞選考委員】
委員長 三田誠広
委員 菊池 仁(文芸評論家)、細谷正充(文芸評論家)、雨宮由希夫(書評家)、森川雅美(詩人)、加藤 淳(編集者)

書評『室町小町謎解き帖 呪われた恋文』

雨宮由希夫

書名『室町小町謎解き帖 呪われた恋文』
著者名 飯島一次
発売  双葉社
発行年月日 2016年5月15日
定価   ¥593E

 

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 飯島一次の『室町小町謎解き帖』シリーズの第二弾である。飯島には双葉文庫に限っても、『朧屋彦六 世直し草紙』、『三十郎あやかり破り』、『阿弥陀小僧七変化』といった人気シリーズがあるが、『室町小町謎解き帖』はつい最近始動したばかりの新シリーズであるに関わらず、すでに第二弾である。


 大阪生まれ江戸育ちの時代小説作家・飯島一次は無類の映画好き、映画を見ない日はないという。その上、街歩きの達人でおまけに人づきあいがよいことこの上なく、散策後の懇親会も深夜まで付き合ってくれる。いったい、いつ執筆しているのか不思議に思わざるを得ない“超人”である。

 

 本シリーズの主人公は日本橋呉服商「三浦屋」の箱入り娘お雪19歳。喜多川歌麿が錦絵に取り上げようとしたほどの超美人で「室町小町」として知られる。三浦屋の主の善右衛門は茶屋遊びもせず酒もさほど好きではない堅物だが、芝居道楽の末に家を飛び出し役者になった倅忠太郎と二階の奥座敷にこもりがちの娘お雪、二人の子供たちの先行きを心配している。特にお雪が捕物好きで首なし死体の一件で下手人を言い当てたと世間に広まれば、金輪際、婿の来手がなくなると気をもんでいる。
 三浦屋のお雪は単なる捕物好きではなく、「狐憑き」であるとの噂を広めたのは蔦屋重三郎である。蔦屋重三郎は歌麿に下絵まで書かせたうえに、「室町小町のきつね憑き、やっつく、やっつく、やっつくな」の戯れ唄を流行らせ、小町娘が人殺しの謎解きをするという戯作を十返舎一九に書かせようとしている。

 

 事件が起こる。
 神田お玉が池で、日本橋堀留町の質屋「上州屋」のひとり娘お松18歳が首を吊っているのが見つかる。
 なぜ首を吊ったのか、自殺か他殺か。
 上州屋には日本橋本石町の両替屋「阿波屋」の次男新次郎が婿入りすることになっていた。縁談も決まっていた娘の死に納得がいかない上州屋の主でお松の父親の彦兵衛は、お雪に、お松が死んだわけを調べてくれと依頼してくる。
 世間では三浦屋のお雪に狐が憑いていて、殺しの下手人を言い当てという噂が広まっており、その噂を頼りに、彦兵衛は娘の死の真相を狐憑きのお雪から聞き出そうとしているのだ。
悪事や変事の謎を解き明かしたいという願望のお雪はこの事件に興味を持つ。

 

同じことを彦兵衛に頼まれた人物がいる。「小舟町の親分」こと弁天の辰吉で、このシリーズの常連になるであろう人物と思われるから、詳しく紹介しておこう。辰吉は南町奉行所同心竹内小四郎の手先、商家の番頭風の40すぎの独り者。子分の貫太と通いの婆さんお兼がいる。お兼の作る茄子の田楽、いわしの生姜煮、大根と里芋の煮しめ、唐茄子の煮付けなどを酒のつまみとして一杯やるシーンには、読者の多くが相伴にあずかりたいと思うであろう。
 辰吉は、上州屋お松の首くくりの一件ばかりはどうにも先が見えないと思っている。自殺では捕物にならないからである。

 お松の死の真相に迫るにはどうすればよいか。
 上州屋を訪ねたお雪は、お松の母お久から形見分けとしてお松が使っていた硯箱を入手し、ある事実に気づく。二重底の硯箱には恋文が入っていたのである。本作の書名「呪われた恋文」の由縁はここにある。
 一方、辰吉と貫太はある妙な噂に気を留める。
 質屋であるはずの上州屋は裏で高利貸しの真似をしているとのこと。また、お松には上州屋の番頭をしていた清吉という言い交わした男がいたが、彦兵衛が清吉をクビにして生木をはぐように二人を引き離したというのである。
 お松は自殺であった。手を下さずに、お松を死に追いやったものがいる……。
 テレビの2時間ドラマスペシャルで、ビデオを巻き戻し、ドラマの冒頭に登場していた人物を確認したい衝動に駆られることがあるであろう。犯人は意外な人物であった。

 物語の時代背景は寛政8年(1796)。
「白河様がご老中を辞められても、少しはお世直しの締め付けも緩んでいるが」、「田沼様は酸いも甘いも噛み分けお方だった」という表現が、蔦屋重三郎、十返舎一九喜多川歌麿山東京伝らが生きた、松平定信以後の時代を巧みに写し取っている。
 江戸一番の美女が捕物の謎を解く。お雪の推理で事件は解決するのだが、本書は単なる推理小説では終わらず、寛政期の江戸の文化状況の一端を活写しているのである。
 江戸弁で綴られた文体と有無を言わせぬテンポのよさが小気味良い。背後に見え隠れた悪党をあぶりだすシーンはことのほか面白く、胸のすく思いがする。是非、本書を手にとって、読者各位が存分に味わって欲しい。

 

飯島一次(いいじま・かずつぐ)は1953年、大阪生まれ。2007年、作家デビューという。「愉しんでいただければそれでいい」とおっしゃるエンタ―テナーであるが、歴史知識も豊富で、大いに注目したい歴史時代小説家である。
(平成28年5月23日 雨宮由希夫 記)

書評『使の者事件帖(三) 何れ菖蒲か杜若』

雨宮由希夫

書名『使(つかい)の者事件帖(三) 何れ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)』
著者名 誉田龍一
発売  双葉社
発行年月日 2016年5月15日
定価   ¥611E

何れ菖蒲か杜若-使の者の事件帖(3) (双葉文庫)
 

 猪(いの)(猪三郎)、鹿(しか)(鹿之丞)、蝶(ちょう)(お蝶)の3人の殺し屋が江戸の町にはびこる悪い奴らを退治する痛快この上ない『使(つかい)の者事件帖』シリーズの第三弾である。
 第三弾ではじめて三人に巡り合う読者のために、三人のキャラクターを略述したい。

 猪三郎は本シリーズの書名になっている「使の者」、人から頼まれたちょっとした用事や言伝(ことづて)を請け負う商売。鹿之丞は猪三郎を見下ろすほどの長身で役者のような目鼻立ちの水も滴るいい男。団扇(うちわ)の貼り替えを生業(なりわい)としているが、貼り替えは口実で、女一人の家に上がり込んでは情を通じ合うこともしばしば。当人は「一時の愉しみを与えている」と言っているが。お蝶は深川黒江町の楊枝屋「姿屋(すがたや)」の看板娘で、愛くるしい大きな目と、つんと上を向いた高い鼻、厚ぼったい唇の美人である。
 三人は南町奉行所内与力・村雨卯之助の指揮の下、秘密の仕事を請け負っている。
 三人が殺しに使う武器も決まっている。猪三郎は二尺(約60センチ)ほどの棒が3本、鎖でつながっている三節棍(さんせつつこん)。鹿之丞は「くくり」という一尺ほどの「へ」の字に曲がり先が大きく広がっている刀身の刃物である。お蝶はただの簪より太く、長さも7寸(約21センチ)以上もある沖縄簪(かんざし)である。 
 三人は内与力村雨の上司である南町奉行の筒井和泉守政(まさ)憲(のり)が長崎奉行であった頃、長崎で拾われた。三人とも捨て子であった。筒井は村雨に三人の養育を任せ、村雨は三人に、体術、忍びの術、暗殺術を叩き込むなどしてずっと育ててきた。筒井の江戸町奉行就任とともに、三人は江戸に出てきた。
 三人と村雨の四人が一堂に会するのは習得した技を使う秘密の仕事が起きたときで、お蝶が働いている姿屋の裏に位置する納屋がひそかに集まる場所である。羽織袴に二本差しの村雨卯之助は「必殺仕事人」の中(なか)村主(むらもん)水(ど)を彷彿させる。

 さて、本書第三巻。
 門前仲町の錦絵の版元龍(りゅう)海堂(かいどう)で「美女入れ札」が開催される。いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)のコンクールである。大関(第一位)の材木問屋菊村屋の娘お半(はん)と小結(第三位)の生糸問屋の娘お直(なお)は誰もが納得する美形だったが、関脇(第二位)の小間物問屋山崎屋の娘おまさはどう見ても美女とは言い難い容貌であったが上位にランクされた。
「美女入れ札」の翌日、事件発生。第三位、第二位の女が続けざまに殺され、第一位の女の許婚だった虎という大工が下手人に浮上してくる。
「使いの者」猪三郎たちが調べたところ、事件の真相が明らかになってくる。
 悪人たちの標的は関脇(第二位)の山崎屋六兵衛の娘おまさで、病床の六兵衛を死に至らしめての山崎屋乗っ取り計画がどす黒く進行していたが、悪徳奉行所同心と瓦版屋がグルになった一味を、猪三郎たちはきっちり地獄へ送るべく命がけで始末する。一件落着である。
 が、内与力の村雨は、どうにもすっきりしない、まだ裏がある、裏で絡んでやがる奴がいる、身内である奉行所内に悪の片割れがいる、とにらんでいる。やがて、殺し屋三人の殺しの手口を真似た連続殺人事件がおきる。三人と村雨のやっていることを知っていると偽物グループは暗にほのめかしているのだ。凍り付く四人……。
 これ以上、ストーリーを追ってしまうと読者と書き手に失礼なので控えるが、有無を言わせぬテンポのよさが小気味良い。背後に見え隠れた巨悪の首魁をたたき斬るシーンはことのほか面白く、胸のすく思いがする。是非、本書を手にとって、読者各位が存分に味わって欲しい。
 筒井(つつい) 政(まさ)憲(のり)は本書に登場する唯一の実在の人物である。長崎奉行を経て、文政4年(1821)より南町奉行を20年間務めている。シーボルト事件では奉行として高橋景保を捕縛、尋問し、ロシアのプチャーチンが国書を携えて長崎に来航した際には川路聖謨とともに交渉全権代表に任命され対露交渉に当たっている。安政6年(1859)死去。享年82。

 筒井に拾われたとき、三人は何歳であったのか? それぞれの出自は? 
 猪三郎は三節棍(さんせつつこん)を長崎の頃より使っていたとある。またお蝶の沖縄簪は沖縄の女性が琉球王朝時代、長い髪を撒いて止めていた銀の簪「ジーファー」と呼ばれるものである。手掛かりはそのあたりからか。
 三人、三羽烏。二男一女、一女のお蝶を猪三郎と鹿之丞が取り合うという風でもない。猪三郎はお蝶に気があるようでないようで。色事に長けているのは鹿之丞だけであるのは確かである。三人の位置関係は微妙だが捨て子であったということが独特の一体感を醸し出している。
 とはいえ彼らが活躍する時代背景は、文政年間であることがわかった。
 続編が待たれる。
 明治維新まではまだ日も遠いが、激動の幕末は指呼の間である。事件帖に筒井政憲ら実在の人物がからんでくることはあるのか。若き猪三郎、鹿之丞、お蝶という目の離せないトリオの必殺稼業がさらに続くと思うからである。

 誉田龍一(ほんだ・りゅういち)は大阪府泉佐野市出身、1963年生まれ。2006年、『消えずの行灯』で第28回小説推理新人賞を受賞して、デビューした。『使いの者の事件帖』シリーズの他、『殿さま同心天下御免』シリーズ、『定中役捕物帖』シリーズなどがある。大いに期待したい歴史時代小説家である。
         (平成28年5月20日 雨宮由希夫 記)

書評『王になろうとした男』

雨宮由希夫

書名『王になろうとした男

著者  伊東 潤

発売 文藝春秋

発行年月日  2016年3月10日

定価  ¥660E 

王になろうとした男 (文春文庫)

王になろうとした男 (文春文庫)

  

 天皇に替わる新たな権威を創出したかに見える人物として、足利義満織田信長を上げることができる。義満は皇位簒奪の意図を隠さなかった。一方、信長には安土城内に摠見寺を築き、自らの神格化を図った事実があるが、また、天正10年(1582)の本能寺の変の直前に、朝廷が信長を「太政大臣か関白か将軍か」に推任した三職推任問題もきわめて重要である。信長の回答がノーであったということは信長が三職のいずれにも任官する意思がなく、それら以上の権威を目論んでいたとみるのが自然ではないかと思われるが、信長の無回答は「天下布武」戦略の総仕上げとして信長がいかなる政権を構想していたかを永遠に歴史の闇の中に沈めてしまった。

 

 ゆえに、作家・伊東潤が「王になろうとした男」信長にいかに迫ろうとしているか、読者は大いなる期待をもって本書を紐解くことになる。

 

本書は『城を噛ませた男』『国を蹴った男』に続く“男シリーズ”三部作の最終巻で、2013年7月、単行本として刊行されたものの文庫化である。

登場する人物は、明智光秀豊臣秀吉柴田勝家などのような知名度はないが、今川義元の首を取った男・毛利新助をはじめとして、塙直政、荒木村重津田信澄、彌介の、信長との出会いがあったゆえに、好むと好まざるとにかかわらず、己の人生を変えられていった男たち五人で、それぞれの峻烈な生と死を描いた歴史短編集である。

 

巻頭の「果報者の槍」桶狭間今川義元の首を取るという大功を挙げたにもかかわらず、その後、歴史の闇の中に消え、再び現れた時は、本能寺の変で信忠に従って壮絶な討ち死にを遂げることになる毛利新助が主人公。信長の抜擢が足枷になるという新助の皮肉な一生を追うことで、毛利新助という男の孤独と矜持が浮かび上がってくる。

 

「毒を食らわば」は信長の重臣・塙直政が主人公。直政は徳川家康浅井長政との同盟に外交官・行政官として手腕を発揮し、長篠の合戦で鉄砲奉行の一人として功あり、光秀や秀吉と並ぶほど抜きんでて、山城・大和両国の守護を兼務するまでに上り詰める。しかし、出世競争の先頭を走っていただけに無理を重ね、信長の過大な要求に応えようとして八方塞がりとなり、本願寺攻めで門徒軍の砲撃にあい無残にも戦死する。「結果を出さなければ生き残れない信長の家臣」の典型である。

「果報者の槍」と「毒を食らわば」の2作は、信長に仕えた同郷の2人の武将の対照的な生きざまと死にざまを描き、内容はほとんど重なる。

 

「復讐鬼」は野心の強さを家臣の中川清秀に見透かされ陥れられて墓穴を掘り、信長に背かざるを得ず、ついには妻女、家臣600人余を磔刑、火刑に処された荒木村重が主人公。本能寺の変後、村重は武士を捨て、「茶人」となって賤ヶ岳の合戦の現場にあらわれ、秀吉方武将として前線を守備する清秀を、柴田勝家方の猛将佐久間盛政に急襲させ、清秀を討死に導き、自分を裏切った清秀への復讐を果たす。

また、清秀が与えた偽の情報に操られて死地に誘いこまれる信長の小姓・万見仙千代もよく描かれている。

 

「小才子(こざいし)」は父信行(信長の実弟)が伯父信長に騙し討ちにされ、織田家庶流の津田姓を名乗らされて、信長の臣下となるという屈辱を味わいつつ、本能寺の変が起こるや、光秀の女婿であったために謎の死を遂げた信長の甥の津田信澄(のぶずみ)が主人公。信澄が実は本能寺の変の黒幕だったという造形である。信澄は「天下人の夢」を見るべく周到に策をめぐらして緻密な計画をつくりあげていくが、首を刎ねられる直前に逆にはめられていたことに気づき、自分が父親と同じ小才子に過ぎなかったことを悟る。5編の中で、史実に対する作家の創造性が最も高い作品といえる。

 

表題作となった作品王になろうとした男イエズス会の東洋巡察使ヴァリニャーノから、信長に贈物として献上した黒人奴隷彌介が主人公。数奇な運命をたどった彌助の目線を通して世界進出を夢見る信長の野望や、本能寺の変の様子が描かれる。野心などというものを知らない黒人奴隷であった彌介が「天下布武」を掲げる信長と一緒に夢を見て、人間としての誇りを取り戻しつつ、野心に目覚めていくというストーリーは読みごたえ十分である。もし信長が倒れずに天下統一を果たしていたら、信長はどのような海外政策を採っていただろうかと想像力を掻き立てられる奥行きの深さがある。なお、作家は最新作の『ルシファー・ストーン』(『本の旅人』2016年4月号所収)でもう一つの彌助を描いている。

 

本書は第150回直木賞候補となった作品である。受賞作は姫野カオルコの『昭和の犬』と朝井まかての『恋歌』であった。

「もう十分に受賞者となる筆力がある」「従前の水準からすれば受賞に価する作品」とされながら、なにゆえに、受賞を逃したのであろうか。『昭和の犬』と『恋歌』に比べて具体的にが欠けていたのであろうか。

「5編はどれもオーソドックスに過ぎ、凡庸に感じられた」、「作者のオリジナリティに不安を覚えた」、「どの短編も筆が固く、小説的な膨らみに欠ける」という感想的評価が散見するが、「織田家臣団の数名を描くことで、信長の姿を浮かび上がらせようという試みはある程度成功しているが、表題作の『王になろうとした男』はそもそも長編の素材であろう」という意見が受賞の可否を大きく決定づけたのであろう。「短いものでは伊東氏の力わざが発揮できないのではないか」という穿った見方もあれば、ある人は「表題作を長編で読みたかった」といい、ある選考委員は「時間が足りなかった。この本を作り急いでしまった恨みがある。もっと悠々と書き積み、小説的にふくらませ、〈信長とは何者だったか〉を語った厚みのある短編集であれば、受賞に手が届いたであろう」と語っている。

「ひとつの題材にじっくりと時間をかけた長編を」と、長編を望む声は多いが、「選考会の奇妙な流れに外れていた」という舞台裏を明かす証言にはさもありなんと思う。とまれ「文学作品としての品性の正しさに欠ける」は致命的であったろう。選考委員諸氏は『王になろうとした男』の書名から、「王になろうとした男」すなわち織田信長を連想し直結させていたのである。“悲劇”はここにはじまる。

 

 史実とそれに対する作家自身の解釈・造形を高度に融合させ物語の世界に昇華させることが作家の腕の見せ所である。

本能寺の変は家康を殺すために信長が仕掛けたトラップだったというのが、作家伊東潤の自説であった。本書では、短編が重なりあうにつれ、破滅への予兆がしのびより、本能寺の変の絡繰りが徐々に解き明かされていくという周到かつ緻密な構成がとられている。5編すべてに、信長は主役になっていないが、その存在感、カリスマ性は圧倒的である。

王になろうとした男』で伊東潤がもくろんだテーマは「信長とは何者か」ではなく、「野心とは何か」である。人の生きる意味の深さ、とりわけ、欲と無欲がせめぎ合う人間の心の領域を、野心に振り回された5人の男たちの生きざまを活写することによって、伊東潤は凝視している。

すぐれた短編集である。

 

             (平成28年5月6日  雨宮由希夫 記)

書評『龍になった女――北条政子の真実――』

雨宮由希夫

書   名 『龍になった女 ――北条政子の真実――』
著   者  高瀬千図
発   売  ワイズネット
発行年月日  2015年12月1日

龍になった女―北条政子の真実―

龍になった女―北条政子の真実―

 
龍になった女―北条政子の真実―

龍になった女―北条政子の真実―

 
 

 北条政子については、両極端の観かたがある。「北条時政の娘として生まれ、源頼朝の妻として、鎌倉幕府の成立と発展に尽くし、頼朝亡き後の鎌倉幕府の命運を一身に担って活躍し『尼将軍』の異名をとったほどの屈指の政治家」とするものと、「異常なまでの嫉妬心と独占欲を持った野心家であり、浮気性で恐妻家の頼朝を悩ます『悪妻』の典型で、自分の地位を脅かすものは、それがたとえ血を分けた息子であっても、容赦しない食わせ者の父や弟たちに乗ぜられ、子供らをも自滅させ、ついには婚家を滅ぼすという大ヘマをしでかした『悪女』」とする観かたである。  

 頼朝との結婚、頼朝の挙兵は時代の必然であったのか?
 頼朝の流人生活を伝える歴史史料はきわめて乏しい。歴史の真実に迫れるのは人間観察力と創造性に秀でた歴史小説のみである。『龍になった女 ――北条政子の真実――』の高瀬千図は政子とその時代をいかに描くのか。

 頼朝との結婚、頼朝の挙兵に介在していたであろうさまざまな人間関係を見落とした必然論などには意味がない。頼朝との結婚は家出同然の駆け落ちで、政子は身の危険をも顧みず、飛び出して、流人の胸に飛び込んだのは事実らしい。恋一筋に生きようとする女に打算はなかった。本書の作家もそう解釈している。一方の頼朝に打算はなかっただろうか。
 政子は伊豆の小豪族北条氏の娘であった。頼朝は伊豆蛭ケ小島に流された流人であるが「貴種」であり、「源氏」の再興の主ともなりうる人物であることの政治性を政子は熟知していたのか否か。また、平家全盛の時代に、流人を婿とすることの意味を政子の父・時政はどのように理解していたのか。

 ここに、文覚という稀代の怪僧が登場する。文覚は高尾神護寺の復興を決意し、承安3年(1173)後白河法皇の御所に押しかけ、荘園の寄進などを強訴した罪で伊豆奈古屋(静岡県韮山町)に遠流となった人物である。『平家物語』によれば、文覚は蛭ケ小島に頼朝を訪ね、平治の乱で無念の死を遂げた父・義朝の髑髏を頼朝に示し、悔しかったら謀反を起こせと扇動し、ついに頼朝も挙兵するに至ったと物語られる。本書『龍になった女』では、文覚はどう描かれているか。全編を通じて、政子と頼朝との縁を繋ぎ、政子を支える人物として文覚が存在感豊かに描かれていることは見逃せない。

 そもそも、頼朝にとっての政子はどのような存在であったか。本書では、頼朝の妻になって源氏の棟梁たるの「貴種」の意味の重大性を政子は初めて知ったとされる。一方、政子は頼朝の度重なる浮気に衝撃を受ける。頼朝の本性はとびぬけた好色漢であったというわけではないかもしれない。根底には夫婦というものに対する考え方、東国と都の結婚観の違いがあり、異なる価値観、埋めがたいギャップがあったと想像できる。本書では、頼朝と政子を結び付けた文覚は悩んでいる政子に心からの忠告を授ける。

 文覚とともに、本書において重要な役割を演じるのは、第2代執権として鎌倉幕府をリードすることになる政子の弟・北条義時である。作家は「義時にとって子どものころから政子だけが気を許すことのできる唯一の話し相手であった」と姉弟の睦まじい間柄を造形している。
 悩める政子に対して、その義時は坂東武者の母になれと言い、文覚は人間の女を捨てて龍になれと言う。しかし、政子には、御家人衆のため、領民のため、子らのために生き、女を捨てると決心しても、心の奥底には夫への執着があり、いつしか夫に対して心を閉ざしてしまう。心を閉ざす以外、政子には頼朝とともに生きてゆく手立てがなかった、と造形される。

 人物造形でいえば、義経の造形が出色である。
 義経は「ただ勝てばよいだけの汚い戦いを続けた」とし、「勝利に酔った義経の眼は異様な輝を帯び、目の前に討ち取った何百という首級を並べて喜々として祝杯を上げた」と勝利した後の義経の専横なふるまいを活写し、「人として品位に欠ける」まで酷評されている。判官びいきの大方の日本人との心性とはいささか距離があるが、それだけに鮮烈である。
 義高と大姫の悲劇と静の舞に関わる史実について、作家が政子の恋愛に対する考え方を反映させていることも見逃せない。
 木曽義仲の子である義高は義仲の関東進出の野望撤回のあかしとして、頼朝の娘大姫の婿にするとの口実で人質とされ、義仲が打ち滅ぼされた直後、死罪にされた。義高は単なる人質にすぎず、娘を政治の道具としてしか見ていない頼朝に対し、「なんと非情なことを……。貴方は人の心を失っておしまいになったのですか」と大きな衝撃を受けた政子が頼朝に詰め寄るシーンがある。大姫の一件は、家庭と政治に関する政子と頼朝の対立を最も端的に表している。
 義経と静の子が抹殺されるに及んで、政子は「人非人とはあなたのこと」と口にこそ出さないが、夫への怒りをたぎらせている。しかし、頼朝の態度が揺らぐことなく、作家は頼朝に「世間は私を血の通わない冷血漢だと噂するだろう」と言わしめている。 
 平家一族が相睦まじく生きたに対し、源氏一族は歴代、骨肉の相剋を繰り返している。源氏の血の伝統のしからしむるところなのかもしれないが、先祖は一つの同姓の者たちである同族は生かしておいて危険であるという頼朝の判断は異常というべきか。源氏の「貴種」は頼朝やその後継者に代わって、鎌倉殿になりうる資格を有する。ゆえに、頼朝の兄弟がついには皆滅ぼされてしまった。源氏嫡流の血は武士団のシンボルとしてのみ意味があるが、頼朝も義経も彼ら個人が、財産として何一つ持っているわけではない。しかもシンボルは必ず一つでなければならなかった。まして、朝廷と独自に結び、頼朝に並び立つような存在があってはならない。そこに気づかず、義経は頼朝と同じ血をもつことに自負を抱いて疑わなかった。すでにしてそこに義経の悲劇が生じた。本書では、義経に自重を促す政子を描いている。

 頼朝の死。頼朝を失って、政子は「今やこの国の土台そのものが軋みながら再びくずれようとしているか」に思う。頼朝の危惧していた通り、御家人衆の有力者たちは強く自己を主張し始めており、将軍権力の削減に向かっていた。危機的状況に陥った政子に向かって、「政子殿。今こそ龍になられよ。この国の母となられよ」との文覚の声が虚空より響き渡る。のちに尼将軍ともいわれた政子の実力は、実朝が暗殺され源氏が滅んだのちに発揮されたと考えがちだが、決してそうではなく、その力は頼朝の死の直後から行使されたとみるべきであり、作家は文覚の声にそれを代弁させている。
 頼朝死後の鎌倉幕府の体制はじつに政子によって保たれていたといってよく、政子の主導権によって、頼家の排除、頼家から実朝への将軍職移譲が図られた。
 そして、実朝暗殺。実朝の右大臣拝賀の日、実朝の甥公暁により実朝が殺害されたのである。かくして政子は夫・頼朝が鎌倉幕府を担うものと期待したであろう愛する我が子二人と実の孫のすべてを失うことになった。

 実朝暗殺については政子の信頼する弟・義時が黒幕であったという説もある。多くの歴史的事件がそうであるように、真相は藪の中にある。本書では誰が黒幕であるかについて言及せず、事後処理を速やかに行うよう義時に指示する政子が描かれている。

 物語の最終章での義時の回想が印象的である。義時は政子若かりし頃の情熱的な逃避行を思い浮かべ、「すべては姉上が頼朝公を恋い慕い、山木の屋敷を逃げ出して伊豆山まで行かれた、そこから始まったことではありませんか。姉上のじゃじゃ馬ぶりからすべては始まったのです」と政子に語りかける。
 もし政子が伊東祐親の娘のような内気な女だったとしたら、必然的に頼朝自身の運命まで大きく狂い、誇張して言えば、鎌倉幕府も成立しなかったかもしれない。恋の逃避行から承久の乱の演説まで、政子はそうせざるを得ない人生を歩んだが、それで良かったとするのか、後悔するのか、選択の良しあしは本当のところはわからないが、恋する女として、妻として、母としての政子自身の人生としては、あるがままに、最善を尽くして生きたのだと思える。
            (平成28年4月10日  雨宮由希夫 記)