歴史時代作家クラブ公式ブログ

現在活躍中の歴史時代作家が多数所属する文学団体です。時代文庫活性化を目指し、各社から出ている時代小説文庫等の紹介もします。初めにこちらをお読みください。→http://rekishijidaisakkaclub.hatenablog.com/entry/2014/08/01/105546

書評『扼殺 善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇』

書名『扼殺 善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇』
著者 橘かがり
発売 祥伝社
発行年月日  2018年1月20日
定価  ¥680E

扼殺~善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇 (祥伝社文庫)

扼殺~善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇 (祥伝社文庫)

 

 

 昭和34年(1959)3月10日、東京杉並区の善福寺川宮下橋の近くで、BOAC 勤務スチュワーデス武川知子さん(27歳)が水死体で発見された。当初は自殺とみられていたが、司法解剖の結果、扼殺の跡があり、他殺と断定。被害者の交友関係から、ベルギー人のベルメルシュ・ルイズ神父(38歳)が捜査線上に浮かんだ。
 6月11日、重要参考人と云うよりも、ほぼ容疑者として事情聴取を受けていた神父は正規の出国手続を経て羽田発エールフランス機で本国に平然と帰国してしまう。結局、迷宮入りとなったこの事件は戦後日本の国際的地位の低さを明示する何とも後味の悪い事件として記憶に残ることとなる。
 皇太子(現天皇)の御成婚のちょうど一カ月前に起きたこの事件は、被害者が女性の憧れの職業、国際線スチュワーデスでしかも美人、重要参考人が禁欲的な生活を強いる戒律の厳しいカトリックの外国人神父、ということで世間の耳目を集めた。

 松本清張は事件から7ヶ月後、この事件をモデルにした小説『黒い福音』を『週刊コウロン』の昭和34年11月3日の創刊号より連載を開始している。『黒い福音』は犯罪編と推理編の二部構成、「倒叙推理小説」と呼ばれる形式によるものであった。
 聖職者たる外国人神父が、不犯の戒律を破って、一人の日本人女性と恋に落ち情を通じる。彼をとりまく教会関係者と裏で暗躍する巨大犯罪組織の下で、この神父はスチュワーデスの女性を東京羽田・香港間の麻薬の運び屋として使おうとし、知りすぎた女が抹殺されるというストーリーで、ドロドロとした情痴のもつれからの殺人ではないとした。
 教会は絶好の隠れ蓑であり、神父に捜査の手が及ばぬよう、早く出国できるようにと、働きかけた人がいると、目されたが、清張はその人物を小説の中で、「日本の行政的な上層部の地位にある有力者」「日本の高官夫人」とのみ表記している。事件の顛末に強い疑問と怒りをいだき真相究明に意欲をもった清張にとっては、裏に潜む闇の人物の存在、宗教団体を取り巻く巨大な闇組織と教会とのつながり等、どれも確信に近いものだった。「社会派推理小説創始者」を冠せられる松本清張の憤怒が傑作『黒い福音』を生み出したといえるが、外国人神父が日本警察の刑事たちの必死の努力をあざ笑うかのように逃げた事実のみが厳然として残り、小説を読み終わっても釈然としないという読後感が残ったこともまた否めない。「事実は小説よりも奇なり」であった。

 橘かがりによる本書は、副題に「善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇」とあるように、「ドキュメント・タッチの小説」の体裁をとっていることに最大の趣向があろう。水死体は昭和34年(1959)3月10日の午前7時40分頃、東京杉並区の善福寺川宮下橋の近くで発見されたが、あくまでも「小説的想像」の体裁をとった清張の小説『黒い福音』は事件現場を「善福寺川」とは表記せず、「玄伯寺川」とぼかしている。
 本書では、主人公たる被害者本人の松山苑子〔武川知子〕以外に、未解決事件のスチュワーデス殺しについてのノンフィクションを書こうとするフリーのライターの「松尾慶介」、S会〔サレジオ会〕の教会に集う信者の一人で、殺された苑子という女にそっくりな「古賀悦子」など数人の登場人物の視点から、「事件」に関わるそれぞれのエピソードが語られる。しかも、事件発生当時であるばかりでなく、登場人物によっては、事件後相当歳月を経た時点での当時の世相や社会現象を巧に配し、その中に、スチュワーデス殺人事件の重要な鍵が浮かび上がってくるという周到な構図をとっている。ことに、未解決のあの事件の記憶を持っている団塊以上の世代は、その仕掛けに言うに言えない“懐郷”を味わうことであろう。
 登場人物の中で、キー・ポインターというべきは、熱心なカトリック信者の「百合子」である。百合子の「夫の畠中博太郎は裁判官、有名な法学者で元文部大臣、最高裁長官」であり、「意図的ではないにしろ、夫妻は神父が本国へ帰国するために一役買った」とある。清張が「日本の行政的な上層部の地位にある有力者」「日本の高官夫人」に止めたに対して、本書の作家は闇を突き抜けるべく迷わず踏み込んでいるのである。練達の読者は「畠中博太郎」こそは実在の人物・田中耕太郎(1890~1974)に相当するものと知るだろう。
 晩年の「百合子」に、また、作家は「人知れず罪の意識をもって、あれで本当に良かったの」と回想させている。

 事件から半世紀以上が経つ。この間、日本社会も大きく変わった。昭和30年代まではすでに歴史小説の叙述の対象に入っているとみて、可笑しくはないであろうが、最高裁判事を祖父に持つ作家にしてはじめて踏み込みが可能であったと言えるだろう。
「事件がこのまま人々の記憶から消えてしまうのはやりきれない。事件のことをもう一度書いてみよう。畠中裁判官のことを絡めて書けば、奥行きのあるルポルタージュになるのではないか。何よりも被害者の無念を少しでも晴らしたい」という「慶介」の想いは作家の想いでもある。かくして「畠中夫妻」を核としたこの緻密にして壮大な“歴史時代小説”が生まれることになった。

 作家はなお、こうも描く。
苑子の遺族が事件の真相を知りたいと、真相究明に執念を燃やしたなら、事態はまた少し変わり何らかの展開があったのかも」と。
 被害者像はまた、作家独特のものである。「苑子は嵐のような恋に身をまかし、性愛に溺れた。苑子は情の深い女、大胆で一途で時には無謀で。自らの恋心に殉じるように死んでいった」と。女流作家ならではの人物造形であるともいえる。
「ペータース神父」〔ベルメルシュ・ルイズ神父〕の「その後」が記されている。
 2009年時点でカナダのとある田舎町で地元の名士として存命中であり、神父を続けているという。が、ついに死者への哀悼のことばはなかったと聞くと、読者として怒りがふつふつと滾ってくるのを抑えがたい。
 かくして、本作を通じ、激動の昭和を精一杯駆け抜けた人々がよみがえってくるのだが、闇が晴れないという一点から清張作品に感じたと同様の釈然としないものを感じるのも現実である。

 橘(たちばな)かがりは東京都杉並区生まれ。早稲田大学第一文学部西洋史学科卒業。 2003年「月のない晩に」で小説現代新人賞受賞。「昭和史ノンフィクション・ノベル」を得意とし、自伝的小説『判事の家』や『焦土の恋 “GHQの女”と呼ばれた子爵夫人』の作品があったが、これに加えるに今回発表された本書があり、昭和という時代も歴史小説たりうることを如実に示している。作家には戦後史の闇を歴史小説の手法で書き尽くすべく、幅広い活動をこい願う次第である。
          (平成30年6月20日  雨宮由希夫  記)

書評『騎虎の将  太田道灌 (上・下)』

書名『騎虎の将  太田道灌 (上・下)』

著者 幡大介

発売 徳間書店

発行年月日  上・下とも2018年1月31日

定価 上・下とも¥2000E

 

騎虎の将 太田道灌 上 (文芸書)

騎虎の将 太田道灌 上 (文芸書)

 

 

 “山吹の里”のエピソードで知られる文武兼備の名将・太田道灌(おおたどうかん)(1432~1486)の生涯を描いた歴史小説である。上下2巻17章の大作で、ウエブサイト“歴史行路”に2016年1月から2017年7月まで連載された。

 上巻は関東(かんとう)管領(かんれい)上杉氏を支える扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰で、相模(さがみの)国(こく)守護代を努める太田家に生まれた道灌が、永(えい)享(きょう)の乱(1438、関東公方足利持(あしかがもち)氏(うじ)が室町幕府に対して起こした反乱)、結城(ゆうき)合戦(1440)、嘉(か)吉(きつ)の乱(1441、将軍義教(よしのり)が赤松(あかまつ)満佑(まんゆう)に弑逆された事件)と続く混乱の時代に、少年期を送り、享徳の乱(1454、関東公方足利(あしかが)成(しげ)氏(うじ)が関東管領上杉(うえすぎ)憲(のり)忠(ただ)を騙し討ちにした事件)、分倍河原の大合戦、成氏の鎌倉から古河(こが)への動座を経て、江戸城築城にとりかかるまでを。下巻は長尾景(ながおかげ)春(はる)の乱(1476)を中心に、讒言にまどわされた主君の扇谷上杉(うえすぎ)定正(さだまさ)により、相模糟屋(かすや)の居館で謀殺されるまでを描いている。

 道灌とはどのような武将であったのかを問う前に、道灌が生きた時代とはいかなる時代であったのかを押さえておく必要があろう。

室町幕府守護大名、公卿、寺社の力のバランス上にかろうじて存在していた幕府で、「天皇になろうとした将軍」・3代義(よし)満(みつ)全盛期においてさえ、九州と関東は幕府の完全な支配下にはなかった。一方また、将軍独裁の専制政治を義満以上にすすめようとしたのが「万人恐怖」といわれた恐怖政治をしいたのが、『籤引き将軍』6代義教であった。

そもそも、室町幕府武家の本拠地とされる鎌倉に幕府を開けず、東国統治を担う出先機関として関東公方府を置いた。関東公方府の頂点には、尊氏の次男基氏の流れが「関東公方」としてその地位を継承した。関東管領・上杉氏はその補佐役として、実質的な政務の運営と統括を担ったが、府の長たる関東公方とその政務執行機関である関東管領とは創設以来、反目した。関東管領とは「京都様」(=「室町幕府の将軍」)が関東公方につけた目付であったからである。

歴代の関東公方は一種独立国の機運を高め、ことあるごとに京都の幕府に楯突き、もめごとが起こる度に、関東管領たる上杉氏は関東公方たる足利氏を宥めねばならなかった。「柳営がとるべき道は東国を一つにさせぬこと」(上巻277頁)とあるように、京都の幕府は関東公方関東管領がつねに内部抗争していることを良しとした。

歴史小説の優劣は、その時代と人をいかに描くかにある。幡大介の歴史小説が面白いのは室町時代とはいかなる時代であったかを、「半済令(はんぜいれい)」や「守護大名」を通じて教えてくれることである。室町時代の大名は江戸時代の大名のような領主ではなく、警察官に過ぎず、例えば、甲斐国守護職は〈山梨県警の県警本部長、兼日本陸軍甲府師団長〉である(上巻231頁)と。

上杉氏はもともと丹波(たんばの)国(こく)上杉荘の下級公家にすぎなかったが、関東公方を輔弼する役割を担う関東管領となるに及び、上杉一族は山内(やまのうち)、扇谷、犬懸(いぬかけ)、宅間の四流に分かれて栄えた。太田氏ももともとは丹波国地侍であったが、上杉家が丹波守護となった縁で上杉家の被官となり、上杉氏に従って東国入りし、上杉家の家宰となった。

上杉氏も太田氏もその出自は「頼朝以来」を誇る東国土着の武士とは異なるよそ者であった。また、「管領と家宰」の関係も「公方と管領」同様、確執をはらむ宿命にあった。このような時代に扇谷上杉家の家宰となったのが、太田道灌であった。

作家は、室町後半期の政治支配の仕組み、さらには足利将軍、関東公方関東管領の微妙な関係が生み出す複雑極まる展開を独特の筆致で整合的に説明しつつ、ストーリーを展開させる。

応仁の乱(1467)の原因は有力守護大名の斯波・畠山両氏の家督争いに加え、将軍継嗣問題が拍車をかけたことにあり、さらにはその戦乱が全国へ飛び火して、勝者も敗者も定めがたい卍巴の消耗戦となったといわれる。

関東戦国史を知るためには、禅(ぜん)秀(しゅう)の乱(1416 室町幕府の東国支配の本拠鎌倉府の中枢の分裂)にはじまり、永享の乱(1438)、結城合戦(1441)、享(きょう)徳(とく)の乱(1454~1482)へと続く一連の争乱を理解する必要がある。関東の錯乱が室町幕府の権力争いを誘発して応仁の乱に至ったともいえる。現象だけを眺めれば享徳の乱は地方の一騒乱にすぎないかも知れないが、見方によっては時代を画した事件だったともいえるのである。

応仁の乱の勃発により、作家は「関東の武士たちに新しい”戦いの名分”が与えられた。戦いの目的と勝利条件が変わったのだ」(下巻191頁)と記している。

享徳の乱以来、関東が京都に先立ち、実力だけを拠り所とするいわゆる戦国時代に突入していた。このとき、道灌は時代の転換点、時代の節目をどこまで感じ取っていたであろうか。

長尾景春の乱(1476)の発端は家宰職の争奪であっても、首謀者・長尾景春関東管領上杉氏の守護領国体制を打破して、戦国大名への指向性を見せた人物であるとする見方もある。景春と道灌は「上杉氏の家宰」という同じ立場にあり、道灌の方が一回りほど年長、以前から親密な友人で、景春は道灌を兄と慕いながら、二人は敵味方に分かれて戦う。なお加えるに、本書では道灌と景春とは姻戚関係にあったと造形されている。

 景春以上に道灌の「戦国大名」としての可能性を考える上で重要な人物は北条早雲(? ~1519)である。道灌の同時代人たる早雲の出自については「伊勢の素浪人にすぎない」などの俗説があったが、本書では、将軍足利義(よし)政(まさ)の申(もうし)次(つぎ)・伊勢(いせの)盛(もり)定(さだ)の子盛時(もりとき)であるとする。道灌と早雲は、駿河(するが)今川氏の家督相続騒動で出会うのは史実に即しているが、本書では、のちに戦国大名の先駆になる早雲が、一途に主家大事とつとめる道灌に「騎虎の勢い」を説くシーンがあり、本書の書名の由来となっている。

時代は着実に変わりつつある。関東公方関東管領もその権威を失い、もはや彼らが関東の主である時代は終わっており、関東における室町体制の秩序は崩壊し、実力がものをいう時代、下剋上のまかり通る乱世が目の前にあった。実力、声望ともに、道灌に比肩するものは関八州にはいない。しかし、道灌の死によって、道灌治下の江戸の繁昌はわずか30年でおわる。

騎虎の勢いで駆けめぐる道灌の前に立ちはだかる壁とはなんであったのか。

時代を変え、新たな天下を築いていくという断固たる意志は旧体制の護持という保守性で薄められたが、道灌に野心がなかったと言えば、嘘になろう。

北条氏を除いて、関東には、武田氏、上杉氏、伊達氏のような戦国大名がうまれなかったわけも納得できた。戦国初期の関東を知る上での優れた歴史小説の誕生である。

かつ、今年度上半期を飾る最大の労作でもある。

(平成30年5月29日  雨宮由希夫 記)

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公式ホームページ開設!

歴史時代作家クラブの公式ホームページが出来ました。

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第七回歴史時代作家クラブ賞候補作発表!

第7回歴史時代作家クラブ賞候補作を発表致します。

 

新人賞

泉ゆたか『お師匠さま、整いました!』講談社1月刊

佐藤巖太郎『会津執権の栄誉』文藝春秋4月刊

武川佑『虎の牙』講談社10月刊

谷治宇『さなとりょう』太田出版3月刊

 

文庫書き下ろし新人賞

今村翔吾『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』祥伝社文庫3月刊

三好昌子『京の縁結び 縁見屋の娘』宝島社文庫3月刊

さとみ桜『明治あやかし新聞 怠惰な記者の裏家業』メディアワークス文庫3月刊

 

シリーズ賞(非公開選考)

 

作品賞

天野純希『燕雀の夢』KADOKAWA2月刊

浮穴みみ『鳳凰の船』双葉社8月刊

武内涼『駒姫 三条河原異聞』新潮社1月刊

簑輪諒『最低の軍師』祥伝社文庫9月刊

谷津矢車『おもちゃ絵芳藤』文藝春秋4月刊

 

功労賞(非公開選考)

 

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選考委員 三田誠広(委員長)

     菊池仁/細谷正充/雨宮由希夫/森川雅美/加藤淳

書評『かちがらす 幕末を読み切った男』

書 名   『かちがらす  幕末を読みきった男』      1808
著 者   植松三十里
発行所   小学館
発行年月日 2018年2月27日
定 価    ¥1750E

 

かちがらす: 幕末を読みきった男

かちがらす: 幕末を読みきった男

 

 

 明治維新から150年という節目の年に当たる今年(2018)を期して、歴史小説の世界では、ある特定の藩の立場から見た幕末維新を描いた名作が発表されている。伊東潤の『西郷の首』は加賀藩から、奥山景布子の『葵の残葉』は尾張藩からであるが、本書は佐賀藩を正面切って描いたものである。

 作家にはすでに、一冊のオランダ語の書物を頼りに反射炉の建造に挑んだ佐賀藩の男たちの物語『黒鉄の志士たち』(2013)があるが、幕末・開明佐賀藩主・鍋島(なべしま)閑叟(かんそう)を主人公として、もう一度、幕末の佐賀を描こうと思ったという。
 35万7千石の大藩肥前佐賀藩は幕末の多くの藩で見られたような藩を二分した熾烈な派閥の対立もなく、また、「薩長土肥」といわれるが、薩摩長州のような積極的な動きを示さなかった。木戸孝允が「佐賀、ハジメヨリ天下ノタメニ功ナシ。天下ニ害スルコト甚ダ多シ」(『木戸日記』)と斬り捨てたごとく、鳥羽伏見の戦いで天下の大勢が決した後にアームストロング砲を担いで登場した佐賀藩の貢献度は当時においては低いとみられていた。

 後世の者から見れば、佐賀藩は日本史上、屈指の激動の時代である幕末において、きわめて特異な動きを示していることがよくわかるが、幕末の風雲の最中にあって、鍋島閑叟(かんそう)がいかに現況を読み切り、いかに生き抜いたかを、作家は淡々と描いている。

 天保元年(1830)17歳で藩主となり、はじめて領国佐賀へ向かう時、東海道品川の本陣で足止めを喰らうという挿話はあまりにも有名だが、本書でも藩財政逼迫のために味わう恥辱的な、ある意味で閑叟の生涯を決めた事件を物語の初めに置いている。藩主としてのスタートは悲惨であったのだ。この恥辱をはらうべく、若くして藩政改革に取り組み、やがて他藩に先駆けて西洋化を進める姿勢がまず描かれる。
 閑叟の最初の正妻・お盛は11代将軍家斉の娘であったが、外様大名の夫を助けるお盛との夫婦の絆がほほえましい。

 また、閑叟を取り巻く人間関係の描写がすぐれる。
 島津(しまづ)斉(なり)彬(あきら)は母方の従兄(いとこ)で、互いの心が通じ合っていた。井伊(いい)直(なお)弼(すけ)は父方の再従弟(はとこ)で、海外に目を開き、閑叟と意見を同じくする。伊豆(いず)韮山(にらやま)に反射炉を築いて大砲を鋳造する江川(えがわ)太郎(たろう)左(ざ)衛門(えもん)坦(たん)庵(あん)も同志の一人だが、皆、短い生涯を遂げ閑叟の前から去ってゆく。同志とよべる漢(おとこ)を次々と失う。ここに閑叟の先駆者としての悲劇の一因がある。
 命を賭けて田中儀右衛門らを佐賀に招聘する佐野(さの)常民(つねたみ)、義祭同盟という勤皇の結社を旗揚げし尊王攘夷を叫び、藩の方針に異を唱える枝(えだ)吉(よし)神(しん)陽(よう)。神陽の下に集まる後に維新政府の大官となる江藤(えとう)新平(しんぺい)、大隈(おおくま)重信(しげのぶ)。そうした彼らの才を愛する閑叟の懐の奥深さ、主従の絆がこれまた読ませる。

 幕末の名君、いわゆる賢侯とよばれる人々は数多いが、水戸(みと)斉(なり)昭(あきら)、山(やまの)内容堂(うちようどう)、松平(まつだいら)春獄(しゅんごく)などに比べれば、閑叟はその世界観、見識、藩士への統率力が一頭、地を抜いていたといえる。
 閑叟をして幕末の英傑たらしめた要因は、佐賀藩が幕命による長崎警護の任にあり、いち早く海外の情報を入手でき得る場にあったことである。長崎警備と言えば、公然と大砲を作ることができ、秘密裏に対外貿易も成し得た。尊攘論が一世を風靡していたあの時期に、「真の攘夷とは外国の侵略を防ぎ、日本を守ることだ」(197頁)と確信し、科学技術の導入こそが新時代を先導するものと見抜いていた閑叟は、長崎警備にことよせ、新鋭の洋式兵器を蓄え、佐賀藩の軍事力を日本随一のそれに育て上げた。
 動乱に際して勤王・佐幕のいずれにも与せず、殖産興業策を大いにやるばかりの閑叟を幕府も諸藩も理解できず、「二股膏薬」「風見鶏」「肥後の妖怪」などと揶揄、警戒した。また、このことに閑叟自身は甘んじた。

 慶応3年(1867)7月27日、大坂城で徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)が閑叟に「本当に佐賀藩が中立を守るなら、政権を朝廷にお返ししてもよい」と大政奉還の意思を語る場面(287頁)がある。淡々と記述されたこの物語において、唯一、作家の造形力が史実の枠を超え波打つシーンであるといってよい。『徳川慶喜公伝(3)』(東洋文庫)によると、「閑叟は一度だけ京都に上り世間をおどろかせた」とあり、慶喜はそれを元治元年(1864)10月13日のこととしている。なぜ慶喜が慶応3年(1867)7月の閑叟との会見を無視したのか。
 閑叟が徳川幕府の運命について、どのような見解を持っていたのかはわからないが、終始、政局に深入りする気持ちはなかったのである。

 作家は描く、「それ(=権力争い)よりも、ひとえに日本の海を守りたかった。わが家中が全滅すれば、日本という国も消え失せるだろう。とにかく技術を磨き、力いっぱい日本の海を守るしかない」(229頁)と。
 作家が「かちがらす」を本書の表題としたには、断じて「風見鶏」などではないとの意味がこめられていよう。
 日和見にあらず、あの時代にあって、迷うことなく、方針をしっかり定めて舵取り、“先の日本のために佐賀がある”とした鍋島閑叟はまさしく「幕末を読みきった男」であった。

 維新150年の今年、NHK大河ドラマ「西郷どん」をはじめとし、さまざまな維新回顧のキャンペーンがはられているが、お祭り気分ではなく、地に足の着いた「真の明治維新」を探るためにも、本書は読まれてほしい一冊である。

             (平成30年4月29日  雨宮由希夫 記)

岳真也さん既刊

岳真也会長の本が昨年発売されています。「祝う会」などでバタバタしておりまして、ここで紹介をしていませんでした。すみません!!!!!

 

1968年・イェルサレム・夏

1968年・イェルサレム・夏

 

 

「永遠の都」は何処に?

「永遠の都」は何処に?

 

 ※会員、会友の皆様、お手数ですが「著書を紹介して欲しい」と響(暫定管理者)あてに連絡を下さいますようよろしくお願い申し上げます。会員・会友でしたら100%載ります。