歴史時代作家クラブ公式ブログ

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書評『武士の碑』

雨宮由希夫さん書評です。

書名『武士の碑』

著者名 伊東 潤

発売 PHP研究所

発行年月日 2015年7月6日

定価  ¥1800E

武士の碑(いしぶみ)

武士の碑(いしぶみ)

 

 

 村田新八は人となり沈毅容貌魁偉にして知略あり。年少時より西郷に兄事して、討幕運動に挺身し、戊辰戦争に軍功あり。西南戦争では薩摩軍2番大隊長として奮戦。城山陥落の日、明治10年(1877)9月24日の早朝には愛用の手風琴などわずかばかりの身の回り品を火にくべた。西郷の頭と胴体が離断するや「嗚、天なり」と空を見上げて哭したと伝わる。

 天保7年(1836)生まれの村田は西郷より9つ下、大久保利通より6つ下で、二人の間の鎹のような存在であった。また、村田は西郷だけでなく大久保とも距離が近く、大久保は自身の後継者として、薩閥の次代を担う政治家として村田に期待をかけていたという。また村田自身も「天下を切り回せるのは自分以外にない」との自負心を持っていたという。

 「明治六年の政変」で政府が分裂したことが不平士族を叛乱に駆り立て、やがて西南戦争につながる導火線となる。

 西郷と大久保の分裂は内治派と征韓派の対立に重ねて、外遊組と留守組、外遊経験者と非経験者の対立に大別できる。この色分けからすれば、岩倉使節団の一人として欧米を視察し世界情勢を知悉した村田は外遊組だが、村田だけが外遊組の例外として中央を去った。村田新八桐野利秋篠原国幹別府晋介や辺見十郎太ら私学校党の幹部が西郷を神格化しているのとはやや異なった道を歩み、異なった思考法の持主であった。ここにこの物語の作家が村田を主人公とした理由があろう。桐野らのみを通じては見えないものが、村田を通じれば見えてくると思える「何か」を求めてのことであろう。

 

 『武士の碑』は村田新八の視線から西郷隆盛西南戦争を取り上げ、その原因と経過を追うことにより西南戦争の意味を問うた歴史小説である。

 西郷と大久保は少年時代からの無二の親友であり、一度は刺し違えて死のうとまで決意したほどに死生を共にした仲でありながら、征韓論をめぐって対立、ついに袂を分かつ。村田がこのことを知ったのはフランス滞在中のことであった、と本書では物語られる。また、外遊から帰った村田は大久保には無断で鹿児島に帰り、西郷に組したとの一説があるが、本書では、明治7年(1874)1月4日に帰国した村田が翌々日の1月6日、大久保邸を訪問し、その後、鹿児島に向かうシーンを設けている。     

 この時期の村田は、二人を和解させることのみに腐心していた。どこで西郷と大久保の喧嘩を幕引きさせるか、西郷と大久保の懸け橋となって二人の関係を修復し、西郷の政治生命をよみがえらせる。それができるのは自分しかない。新八にはその自負があった。西郷に会ったら、西郷からも所信を聞き、真意をただし、そのうえで、自分の判断を組み立て、西郷に言うべきことは言うつもりの村田が、大久保に対して吐く言葉が明快である。「道理においては一蔵さん(大久保のこと)が正しく、心事においては西郷さんが正しいことくらい、私にもわかります」(本書23ページ)。

 明治6年(1873)の徴兵令の発布は武士の存在理由を喪わせ、明治9年(1876)の家禄処分の断行は武士たちを失業に追いやるものであった。追い詰められた士族たちの存在理由を政府に再認識させるためには戦争以外にはなく、反乱は時間の問題だったとするのが通説である。

 西国各地で頻発する不平士族の叛乱は鹿児島の若者たちを刺激し、やがて対岸の火事程度では収まり切れなくなっていく。引き潮の渦の中に、いつのまにか新八もまきこまれ、引くに引けない難しい立場に置かれていくのだが、桐野らと一線を画していたはずの新八が結局は桐野らと同様、西郷と生死を共にする道を歩むのはなぜか? 村田新八生涯の最大の岐路がここにあるのだが、この物語を幾度読み返しても岐路を示す道標の存在すら判然としないことに読者自身が気づき愕然とすることであろう。苛立ちの主たる要因は、この時期の西郷が果たして何を考えていたのかわからないことにある。そもそも西郷とは何者かということである。「西郷隆盛は士族連中の親分で、明治政府の閣僚になるどころか、一生武士の魂を捨てきれず、新政府への怨念を自ら体現した」とする見解があるが、西郷のすべてを語りつくしているとは言い難い。この物語の作家も、何とも捉えどころのない西郷像を強いて解き明かそうとはせずに、側近の村田新八を通じて西郷の実像に迫ろうと試行錯誤しているかのようだ。

 

 西郷と西南戦争を描いた歴史小説の長編『翔ぶが如く』を描いた司馬遼太郎はその「あとがき」で、「この作品では、最初から最後まで、西郷自身も気づいていた西郷という虚像が歩いている。それを怖れる側、それをかつぐ側、あるいはそれに希望を託する側など、無数の人間現象が登場するが、主人公は要するに西郷という虚像である」と述べているが、本書の作家も、「西郷の心の内とは、誰にもわからない。おそらく西郷本人も分かっていないはずだ。それが西郷隆盛という人間であることを、新八はよく知っていた」(16ページ)としている。「西郷自身も気づいていた西郷という虚像」と「西郷本人も分かっていないはずの西郷隆盛という人間」は重なり合うであろう。

 西郷には反乱の意志は全くなく、策を弄して開戦を準備したのは大久保の方であった。西郷は大久保との直接対話を図ることもなく、あえて村田ら側近に心情を語ることもなく、一切の弁明もせずに、賊として死んでいくことになる。

 「公人として上京し、政府に物申す」を大義名分として、あたかも春の野に桜の花を見物しに行くように立ち上がり、幹部らの軍議にも口を挟まず、ただやみくもに熊本城攻略を目指す。

 すでにこの時というか、それ以前に、西郷は、敗北の道を敢えて択び、死に通じるその道をまっしぐらに突き進むしか己の生きる道はないと考えたのではないか。新八がフランスから帰国した年の2月に、佐賀の乱が起きているが、江藤新平の挙兵を聞いたときの西郷に、作家は「おいの役目は、もう終わったと思うちょりもす。こいからは、さかしら人らが何事も決めていけばよか」(71ページ)と発言させている。

 

 本書の主題は、「男には、死なねばならない時がある」である。村田の死に場所に対する思いを強めるエピソードとして、フランス滞在中の出来事が創作されており、「西欧諸国を歴訪し、西欧文明を目の当たりにすることにより、今まで以上に武士として生きることに執着を抱くようになっていた。武士は、死すべき時と場所を違えてはならない」(40ページ)とあるが、第一章「南洲下野」冒頭の4行がすべてで、村田は「己の命ら替えてもこの男(西郷)を守らねばならない」(66ページ)と決めていたのである。

 帯のコピーにも使われている「衝撃の結末」は西郷の土壇場における「投降」に関する作家の新説であり、さもありなんと思わせるが、私はそれよりも、村田が「村田新八の息子として立派に死んでくれ」と二人の息子を死出の旅路の道連れにしたこと自体に思いを致す。次代を担う若者であればこそ、生かしたい、生きのびてほしいと思うのが親ではないか、我が子であればなおさらにと。

 村田新八にとって西南戦争とはなんであったか。「薩摩人の持つ陽の部分(大らかさと寛容さ、進取の気性や柔軟な感覚)と、陰の部分(忠義や大義のためには、仲間さえも切る冷酷非情な一面)こそ、西郷と大久保であり、二人の確執は、薩摩人が日本人として生まれ変わるうえで、通らねばならぬ道なのかもしれぬと新八は思った」(45ページ)とある。

 薩摩人二人の確執こそ西南戦争そのものであり、西郷、村田らの敗戦こそ「時代の必然」(443ページ)なのであった。

 日本最後の内戦である西南戦争は無用の長物となった不平士族の新政府に対する武力反抗の、最終的な総決算のための、歴史的必然であったことを、本書は歴史小説としてつづった力作である。

 

(平成27年7月31日 雨宮由希夫 記)