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歴史時代作家クラブ公式ブログ

現在活躍中の歴史時代作家が多数所属する文学団体です。時代文庫活性化を目指し、各社から出ている時代小説文庫等の紹介もします。初めにこちらをお読みください。→http://rekishijidaisakkaclub.hatenablog.com/entry/2014/08/01/105546

書評『長篠の四人 信長の難題』

雨宮由希夫

長篠の四人 信長の難題 | 毎日新聞出版
書名『長篠の四人  信長の難題』
著者  鈴木輝一郎
発売 毎日新聞出版
発行年月日  2015年9月10日
定価  ¥1600E

 長篠(ながしの)・設楽(したらが)原(はら)の戦いは天正3年(1575)5月21日、織田信長徳川家康の連合軍が三河長篠城の西方3キロ余りの設楽原で武田勝頼を破った合戦として名高い。戦国最強と謳われた武田の騎馬軍団が、織田徳川連合軍の鉄砲の餌食となり、次々と壮絶な戦死を遂げたこの戦いは、通説では信長が斬新な戦法を用いて勝利し、我が国の戦争方式を一変させたとされるが、「鉄砲3,000挺、三段撃ち」が合戦の雌雄を決したとすることについては後世の虚構と見る説もある。また、騎馬隊と呼べるような兵団は存在せず、騎馬集団による突撃などありえなかったとする説もある。

「長篠の四人」とは織田方の信長(42歳)、秀吉(39歳)、家康(33歳)、光秀(59歳)の4名である。信長と家康、信長と秀吉・光秀、家康と秀吉・光秀————この戦いの時点における4者の位置関係の描写が作家鈴木輝一郎戦国史観をよくあらわしていて興味深い。
 この戦いの舞台は奥三河、すなわち家康の領地であり、真の意味での主役は家康であり、本書の主人公も当然ながら家康である。信長は家康の援軍要請に応じて、やむなく出兵するという形を取っている。信長に援軍を頼んだ以上、家康は勝頼に勝たねばならず、負けは許されない。本書における家康は同盟関係にあるとはいえ信長の前に命を投げ出してひたすら戦うだけの隷属者ではない。「似たような立場で似たような力で人生を始め、いつの間にか中原の覇をとなえ日本屈指の大大名になっていた」信長という人物をしたたかに冷静に観察している。
 秀吉と光秀がいかにこの戦いに係わったか。当時近江長浜城主であった羽柴秀吉は「長篠合戦図屏風」に書きこまれているが、この絵図に明智光秀の姿はない。二人の役割がいかなるものであったかを主として出番の少なかった二人をいかに作家が造形しているかが読みどころのひとつでもある。
 光秀と秀吉は「金ヶ崎の殿軍」と「姉川の合戦」で、ともに徳川の者たちと組んで死線を乗り越えてきた武将だが、信長と対等の同盟関係にある家康にとって、信長の家来である秀吉と光秀は格下の人物であるにすぎず、家康が「羽柴」と呼ぶ秀吉は「立ち回りが器用すぎる食えないやつ」であり、「明智」と呼ぶ光秀に至っては、「有能で何でもできる代わり、自分に関係ないことは徹底的に無責任で思い付きで行動するからこそ、初老の年までぶらぶらと牢人するような生活を送っていた能天気な男」、「信長が異常なまでに出世させるほどに、信長と気の合う傾奇者」である。秀吉と光秀の関係については、秀吉が20歳年上の光秀を「十兵衛殿」と呼ぶことに暗示的な何かを感じさせる。両人の年齢差が要注目なのである。
 一方、勝頼(30歳)。「合戦の腕前では、勝頼は信玄よりも上であったが、家臣団に信頼されていない勝頼は亡父を超える実績をほしがっている」。よって、「勝頼の合戦の目的は、信玄亡き後の自分の実力を家臣団に誇示し、地歩を固めることにある。勝頼にとって、信長が3万の大軍を連れてきた時点で今回の合戦の目的は達成している」。

 決戦の1週間前の天正3年5月14日夜の岡崎城本丸奥座敷。
「織田の味方を一人も損ぜずに武田に勝て」
 信長が「さわやかに」笑いながら光秀と秀吉そして家康にささやく。信長が「さわやかに」笑うときは間違いなく信長本人だけが「さわやかな」ときだ。つまり信長が無茶難題を振るときであることを家康は知っている。
「また、こいつらと組むのか」――身構えつつ家康が信長、秀吉、光秀の3人をにらむところから物語が始まる。

 「長篠の四人」に勝頼を加えた主役級以外に、家康の嫡男である岡崎信康の人物造形が興味深い。長篠の戦が初陣の16歳の若武者は、信長があまり難題をふっかけてくるならば武田につくぞと信長に脅しをかけるべし、実際に武田と手を組むことも徳川家の選択の一つだ、と家康に進言する。
 たった1日の戦闘で武田軍は山県昌景馬場信春内藤昌豊真田信綱・昌輝(幸村の伯父)ら信玄以来の宿将たちのことごとくを失い、全滅に近い損害を被る。長篠・設楽原の戦いの7年後の天正10年(1582)3月、勝頼は自害に追い込まれ、甲斐源氏の名族武田家は滅びるが、本書は天正3年5月22日、つまり、合戦の翌日における家康と家康の正妻・築山殿との対面するシーンで終わっている。この後の築山殿や信康がたどった悲劇――天正7年(1579)武田と内通したと信長に問責された信康と築山殿を家康は泣く泣く死に至らしめる――を知る我々読者は、本書のラストエンドから次に来るものが予想されて打ち震えるのである。

 果たして、勝頼は愚将であり、信長は天才であったのか。
 勝頼は決戦を避け引き揚げるべきとの宿老たちの進言を聞き入れなかったといわれるが、勝頼が武田軍の約3倍の兵力の織田徳川連合軍に決戦を挑んだことは選択の間違いであったのか。勝頼の選択は正しいと作家は物語っている。では、信長と家康の同盟とはいかなる同盟であったのか。
 作家鈴木輝一郎が謎の多い長篠・設楽原の戦いをいかなる物語的構想のもとで描き史実に立ち向かうのかの鍵は、

「織田の味方を一人も損ぜずに武田に勝て」

 の一文にある。この信長の言葉を裏付ける史料的根拠は信長の家臣・太田牛一著の『信長公記』の中の一文、「御見方一人も破損せざるの様に、御賢意を加へらる」である。普通に読めば、「吾等は一兵も損せず、武田の兵を撃ち破ろう」の意味で、味方すなわち織田徳川連合軍の損害を最小限に食い止めたいとする信長の訓示と解せようが、これを解読して、作家は「御見方」を、「織田徳川連合軍3万8千すべて」を指すのではなく、千5百挺の鉄砲を装備した「3万の織田軍のみ」とし、8千の徳川軍に犠牲を強いていると読んでいる。織田徳川同盟の本質が透けて見えてこよう。ここが本書のキー・ポイントであり、ここに作家の独創がある。

 本書は鈴木輝一郎(1960年岐阜県生まれ)の「四人シリーズ」の第三弾である。第一、二弾の『金ヶ崎の四人』、『姉川の四人』は元亀元年(1570)の浅井・朝倉氏との攻防を描いたものである。
 次回作の第四弾は「本能寺の四人」となろう。「信長と気の合う傾奇者」の光秀がなぜ信長を弑逆するのか、作家の描く「本能寺の変」がいやがうえにも待ち遠しい。

           (平成27年10月27日  雨宮由希夫 記)

長篠の四人  信長の難題

長篠の四人 信長の難題