歴史時代作家クラブ公式ブログ

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書評『王になろうとした男』

書名『王になろうとした男

著者  伊東 潤

発売 文藝春秋

発行年月日  2016年3月10日

定価  ¥660E 

王になろうとした男 (文春文庫)

王になろうとした男 (文春文庫)

  

 天皇に替わる新たな権威を創出したかに見える人物として、足利義満織田信長を上げることができる。義満は皇位簒奪の意図を隠さなかった。一方、信長には安土城内に摠見寺を築き、自らの神格化を図った事実があるが、また、天正10年(1582)の本能寺の変の直前に、朝廷が信長を「太政大臣か関白か将軍か」に推任した三職推任問題もきわめて重要である。信長の回答がノーであったということは信長が三職のいずれにも任官する意思がなく、それら以上の権威を目論んでいたとみるのが自然ではないかと思われるが、信長の無回答は「天下布武」戦略の総仕上げとして信長がいかなる政権を構想していたかを永遠に歴史の闇の中に沈めてしまった。

 

 ゆえに、作家・伊東潤が「王になろうとした男」信長にいかに迫ろうとしているか、読者は大いなる期待をもって本書を紐解くことになる。

 

本書は『城を噛ませた男』『国を蹴った男』に続く“男シリーズ”三部作の最終巻で、2013年7月、単行本として刊行されたものの文庫化である。

登場する人物は、明智光秀豊臣秀吉柴田勝家などのような知名度はないが、今川義元の首を取った男・毛利新助をはじめとして、塙直政、荒木村重津田信澄、彌介の、信長との出会いがあったゆえに、好むと好まざるとにかかわらず、己の人生を変えられていった男たち五人で、それぞれの峻烈な生と死を描いた歴史短編集である。

 

巻頭の「果報者の槍」桶狭間今川義元の首を取るという大功を挙げたにもかかわらず、その後、歴史の闇の中に消え、再び現れた時は、本能寺の変で信忠に従って壮絶な討ち死にを遂げることになる毛利新助が主人公。信長の抜擢が足枷になるという新助の皮肉な一生を追うことで、毛利新助という男の孤独と矜持が浮かび上がってくる。

 

「毒を食らわば」は信長の重臣・塙直政が主人公。直政は徳川家康浅井長政との同盟に外交官・行政官として手腕を発揮し、長篠の合戦で鉄砲奉行の一人として功あり、光秀や秀吉と並ぶほど抜きんでて、山城・大和両国の守護を兼務するまでに上り詰める。しかし、出世競争の先頭を走っていただけに無理を重ね、信長の過大な要求に応えようとして八方塞がりとなり、本願寺攻めで門徒軍の砲撃にあい無残にも戦死する。「結果を出さなければ生き残れない信長の家臣」の典型である。

「果報者の槍」と「毒を食らわば」の2作は、信長に仕えた同郷の2人の武将の対照的な生きざまと死にざまを描き、内容はほとんど重なる。

 

「復讐鬼」は野心の強さを家臣の中川清秀に見透かされ陥れられて墓穴を掘り、信長に背かざるを得ず、ついには妻女、家臣600人余を磔刑、火刑に処された荒木村重が主人公。本能寺の変後、村重は武士を捨て、「茶人」となって賤ヶ岳の合戦の現場にあらわれ、秀吉方武将として前線を守備する清秀を、柴田勝家方の猛将佐久間盛政に急襲させ、清秀を討死に導き、自分を裏切った清秀への復讐を果たす。

また、清秀が与えた偽の情報に操られて死地に誘いこまれる信長の小姓・万見仙千代もよく描かれている。

 

「小才子(こざいし)」は父信行(信長の実弟)が伯父信長に騙し討ちにされ、織田家庶流の津田姓を名乗らされて、信長の臣下となるという屈辱を味わいつつ、本能寺の変が起こるや、光秀の女婿であったために謎の死を遂げた信長の甥の津田信澄(のぶずみ)が主人公。信澄が実は本能寺の変の黒幕だったという造形である。信澄は「天下人の夢」を見るべく周到に策をめぐらして緻密な計画をつくりあげていくが、首を刎ねられる直前に逆にはめられていたことに気づき、自分が父親と同じ小才子に過ぎなかったことを悟る。5編の中で、史実に対する作家の創造性が最も高い作品といえる。

 

表題作となった作品王になろうとした男イエズス会の東洋巡察使ヴァリニャーノから、信長に贈物として献上した黒人奴隷彌介が主人公。数奇な運命をたどった彌助の目線を通して世界進出を夢見る信長の野望や、本能寺の変の様子が描かれる。野心などというものを知らない黒人奴隷であった彌介が「天下布武」を掲げる信長と一緒に夢を見て、人間としての誇りを取り戻しつつ、野心に目覚めていくというストーリーは読みごたえ十分である。もし信長が倒れずに天下統一を果たしていたら、信長はどのような海外政策を採っていただろうかと想像力を掻き立てられる奥行きの深さがある。なお、作家は最新作の『ルシファー・ストーン』(『本の旅人』2016年4月号所収)でもう一つの彌助を描いている。

 

本書は第150回直木賞候補となった作品である。受賞作は姫野カオルコの『昭和の犬』と朝井まかての『恋歌』であった。

「もう十分に受賞者となる筆力がある」「従前の水準からすれば受賞に価する作品」とされながら、なにゆえに、受賞を逃したのであろうか。『昭和の犬』と『恋歌』に比べて具体的にが欠けていたのであろうか。

「5編はどれもオーソドックスに過ぎ、凡庸に感じられた」、「作者のオリジナリティに不安を覚えた」、「どの短編も筆が固く、小説的な膨らみに欠ける」という感想的評価が散見するが、「織田家臣団の数名を描くことで、信長の姿を浮かび上がらせようという試みはある程度成功しているが、表題作の『王になろうとした男』はそもそも長編の素材であろう」という意見が受賞の可否を大きく決定づけたのであろう。「短いものでは伊東氏の力わざが発揮できないのではないか」という穿った見方もあれば、ある人は「表題作を長編で読みたかった」といい、ある選考委員は「時間が足りなかった。この本を作り急いでしまった恨みがある。もっと悠々と書き積み、小説的にふくらませ、〈信長とは何者だったか〉を語った厚みのある短編集であれば、受賞に手が届いたであろう」と語っている。

「ひとつの題材にじっくりと時間をかけた長編を」と、長編を望む声は多いが、「選考会の奇妙な流れに外れていた」という舞台裏を明かす証言にはさもありなんと思う。とまれ「文学作品としての品性の正しさに欠ける」は致命的であったろう。選考委員諸氏は『王になろうとした男』の書名から、「王になろうとした男」すなわち織田信長を連想し直結させていたのである。“悲劇”はここにはじまる。

 

 史実とそれに対する作家自身の解釈・造形を高度に融合させ物語の世界に昇華させることが作家の腕の見せ所である。

本能寺の変は家康を殺すために信長が仕掛けたトラップだったというのが、作家伊東潤の自説であった。本書では、短編が重なりあうにつれ、破滅への予兆がしのびより、本能寺の変の絡繰りが徐々に解き明かされていくという周到かつ緻密な構成がとられている。5編すべてに、信長は主役になっていないが、その存在感、カリスマ性は圧倒的である。

王になろうとした男』で伊東潤がもくろんだテーマは「信長とは何者か」ではなく、「野心とは何か」である。人の生きる意味の深さ、とりわけ、欲と無欲がせめぎ合う人間の心の領域を、野心に振り回された5人の男たちの生きざまを活写することによって、伊東潤は凝視している。

すぐれた短編集である。

 

             (平成28年5月6日  雨宮由希夫 記)